・外国旅行で訪問先の国歌の演奏が友好と親善につながる話 ― ギリシアの旅先でギリシア国歌をフルートで演奏して- 
・ファリド館長のFriendship Memorial Tea - バングラデシュの万博パビリオンでのエピソードから 
・バングラデシュへの医療援助から平和を考える 
・若さと健康を保つための日々の心がけ -ドクターの私はどうしているかー 
・卒寿(満九十歳)を迎えた患者さんへのお祝い -法隆寺の奉納瓦のプレゼント- 
・アムステルダム駅でピアノを弾くアフリカからの難民青年 
・バングラデシュへの医療援助10年間の歩み 
・熱中症対策はすでに太平洋戦争中に発見されていた 
・日野原重明先生に学ぶ 「明日の日が待ちどおしくなる生き方をもとめて」 
・大晦日のスリランカ寺院での不思議な思い出 
	
・「ひとの喜びをする」おばあさんの話 
		
・障害者施設でのコンサート「光の森コンサート」を続けてきて 
		
・学校健診における成長障害のスクリーニング法「WHAMES法」の実際 
		
・「I am a doctor! I am a doctor!」 ― 外国旅行中のバス事故で救助に当った経験からー 
・災害時におけるホルモン剤補給支援の必要性と支援チームの結成 
・「チューリップと音楽を楽しむ、ふれあいコンサート」によせて 
・あなたが測ってもらった「ホルモン測定値」をどう読むか ―患者さんが理解できるために―  
・脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の治療 ―とくに成長期のホルモン補充療法と災害時の対応について― 
・これであなたはタバコが止められる! -岡本式禁煙法の紹介 - 
・若さを保つためのWe Are Looking 体操 
・日々元気で若々しく生きるための脳の使い方 
・癌と共に描き続けた大和路 ―林野茂氏の作品から― 
・「学ぶ心は尽きることが無い」 -奈良県立大学シニアカレッジの創設に関わって-  
・低炭水化物食(Low carbohydrate diet)をどう扱うか 
・日野原重明先生とオックスフォードでのオスラー協会総会に出席して 
・「大学入試センター試験」受験のすすめ ― 平成27年度センター試験を受験した経験から ― 
・戦地から帰還した従軍看護婦長のはなし 
			
			
			
			
外国旅行で訪問先の国歌の演奏が友好と親善につながる話
		
岡本内科こどもクリニック
	
			
			
はじめに 
外国の国歌はオリンピックなどで聴く事はあっても、よほど特別な機会が無い限り自身で演奏する事は無い。旅行先でその国の国歌を演奏することが相手の国への敬意と友好の架け橋となることを実感したので紹介したい。今回ギリシア旅行でギリシア国歌をフルートで演奏し、思いがけない出会いがあった。特にギリシアは紀元前の知的文明の発祥の地でもあり、私は旅行前からギリシア国歌のフルート演奏の練習と納富信留氏の「ギリシア哲学史」(筑摩書房)を読んでギリシアに対する憧憬の念を懐いて日本を発った。
	
1)ギリシア国歌との出会い 
	
今回夏季休暇でギリシア旅行を計画し、パルテノン神殿の前でギリシア国歌をフルートで演奏出来ればと、旅行の1カ月まえから楽譜をネットでダウンロードし、フルートの先生に指導を仰ぐ事にした。国歌だけあってメロディーは比較的シンプルな繰り返しが多く、模範演奏を数回聴けば演奏できた。興味深かったのは「自由への賛歌亅と題する国歌の歌詞で、今われわれが享受している自由というものは、ギリシア人の神聖な骨で築き上げられたものであると、偉大な哲学者を祖先(ヘレネ人)に持つギリシア人の誇りを歌いあげている。国歌の最後の歌詞は「汝を称えよ。 おお自由!」で締めくくっている。
2)アテネ空港に降り立って 
	
関空からドバイを経由し、翌朝早くアテネ空港に降り立った。例の如く空港の入管手続きでは長蛇の列で、いつになればわれわれの番になるのかと、時間つぶしに口笛でギリシア国歌を吹いていたところ、聴いていた係菅の若い男性がニコッとして私と家内を呼んで、あちらの方に並ぶようにと指示された。何か不審者と間違われて呼び出されたのかと一瞬ドキッとした。しかし彼にとって外国人である私のギリシア国歌の口笛が気に入ったらしく、笑顔で頷きながらほぼフリーでの審査で通関させてくれた。ギリシア国歌の威力を感じた最初であった。
3)パルテノン神殿でのフルート演奏 
	
パルテノン神殿でギリシア国歌を演奏するのを夢見て練習を重ねてきた。そして酷暑の中、遠くの丘の上にそびえ立つ白亜の神殿を目指して、フルートを持ってようやくたどり着いた。ちょうどヨーロッパも夏季休暇中で多くの観光客であふれ返っていた。いわゆるオーバーツーリズで、さすがに大勢の観光客の前でプロでも無い私がフルートを吹くには気が引けた。 仕方なくフルートを吹いている写真だけでもとフルートを口に当てていると、つい演奏したくなって、ギリシア国歌の最初のフレーズだけ吹いて
みた(写真1)。
	
	
	
すると突然警備員の女性が飛んできて、音を鳴らさずに演奏する写真だけでもNOとの事であった。パルテノン神殿を後に振り返りながら世界遺産である神殿を、私の拙い演奏で汚すわけには行かないとの思いであった。
	
4)パルテノン神殿のライトアップを背景にフルートの演奏 
	
さすがに残念であった思いを何とかしたいと、その夜のパルテノン神殿のライトアップを見ながらのディナーにフルートを持って参加した。レストランの屋上から遠くに眺める夕陽をバックに、神殿のシルエットはすばらしく、陽が落ちて暗くなるとともに幻想的な世界が広がった。ディナーで一緒のグループに私の思いを話し、出来ればここでギリシア国歌を演奏したいと話したところ、是非ともと期待されることになった。 早速神殿のライトアップと夕焼けを背にして、思いを込めてギリシア国歌を演奏した。それを聴いていたレストランのスタッフやギリシア人と思われるお客さんから、それも演奏の途中から大きな拍手を頂いた。これほどギリシア国歌がこの国の人々の心を動かすとは思わなかった。リクエストもあり、たまたま近くにいたギリシア人の仲睦まじいカップルが拍手してくれたので、お礼の意味を込めて「愛の讃歌」を演奏した。そして途中から家内が持ってきたバイオリンとのデュエットで締めくくった(写真2)。もう一つのパルテノン神殿の想い出となった。
	
	
	
5)ブドウ園の家族に招待されて 
	
ギリシアの旅も残り2日、ホテルのベランダから遠くに見える紺碧のエーゲ海を眺めていると、手前に広がるブドウ園と大きな白い館が目に入った。そしてふと「あそこから海に向かってフルートを吹きたい亅との思いに誘われ、真夏の太陽が照り付ける中を30分程かけて目指す邸の近くまで歩いた。丁度日差しをさえぎる木陰があり、そこから遠くに見えるエーゲ海を見ながらまずギリシア国歌を演奏した。そして日本の「浜辺の歌亅を吹いているとき、ブドウ園のオーナーの家から中年の太った女性がギリシア語で何か喋りながら私の方に笑顔で近寄ってきて、家を指差して、コーヒーと言う単語が耳にはいった。きっと「コーヒーをご馳走します亅と言っていると思って彼女の後についていった。勝手口から庭に入るとすばらしい豪邸の庭で、彼女の96歳になる父親と89歳になる彼の弟の2人が話しているところであった(写真3)。
	
	
	
庭に招き入れた私を「日本人でギリシア国歌を演奏してくれた亅と紹介してくれた。彼女が片言の英語が話せるので私がギリシア国歌を練習してきたいきさつや、学生時代にギリシア哲学のソクラテス、プラトンやアリストテレスに興味を持った事を伝えた。Japanese have great respect for the Greece philosophers such as…”。そして早速ギリシア国歌の演奏をはじめた。演奏をはじめて今まで超高齢のよぼよぼのおじいさんかと「思っていたが、私のフルートに併せて声を張り上げて歌ってくれた。国歌を聴いて歌って元気が蘇ったようで、普段面倒をみている彼女も父親が元気に歌っている姿を見て、私を自宅に招き入れたことを喜んでくれた。そして、おばあさんが二階で寝ていて降りて来られないから、部屋に来て聴かせてやってほしいとの願いであった。豪邸の中に入ってさすがにブドウ園のオーナーだけあって日本家屋とは違う豪華な内装に驚いた。二階に上がっておばあさんの寝ている部屋に案内された。彼女は1カ月まえに右の大腿骨頚部骨折で手術を受けたばかりで、臥床安静の身であった。先ほどお爺さんの感激ぶりを見ていて、やはりギリシア国歌が元気を与えるであろうと考え、ベッドの前で演奏した。ギリシア国歌のフルートを聴き始めて、急に身体を乗り出してフルートに合わせて手で拍子をとりながら歌ってくれた。足が不自由で寝ているだけで、思ったより元気であった。演奏が終わると目に涙を浮かべて私の手をとって感謝の思いを伝えてくれた。彼女の感謝の心を肌で感じ、国歌を歌って見違えるように元気になった姿をみて私自身忘れていたドクターの心が蘇った。最後に家族と一緒に頂いた昼食のお礼に似顔絵にメッセージ “May have a nice and long life.” とサインしてアドレスと名刺を交換し、もう一度ギリシア国歌を演奏して皆で歌って別れた(写真4)。
	
	
ギリシア人家族も私との2時間余りの出会いを心から喜んでくれたようであった。
	
6)ギリシア国歌の一体何が彼らを感動させるのか 
	
出かける前にギリシア国歌の練習をしていたのは、できればパルテノン神殿の前でギリシア国歌をフルートで演奏できればとの単純な思いであった。しかし私の演奏に想像をはるかに超えるギリシアの人々の反応であった。まさか私の拙い演奏にここまで感動してもらえるとは思いもよらず、国歌という事でうけたとしか思えなかった。もし外国からの旅行者が「君が代」を演奏しても、これほどまで日本人を感動させられるか疑問である。日本に帰ってきて改めてあのギリシアの人々の感動を思い出し「ギリシア人にとってギリシア国歌は何か特別な曲ではないか」と考えるに至った。そして曲の特徴であるリズムとメロディーと歌詞を読み返し、アメリカ合衆国の「星条旗」、フランスの「マルセイエーズ」、イギリスの「God save the King」、イタリアの「マメーリ賛歌」、ロシアの「ロシア連邦国歌」を比べてみた。これらはオリンピックやサッカーのワールドカップで耳慣れている曲である。日本とイギリスの国歌は愛する人や君主を讃える歌で静かに聞く歌である。フランス、イタリアの国歌は民衆の苦難の歴史から国民の団結を高らかに歌っている。アメリカの国歌はまさに軍隊の行進曲にピッタリの歌である。一方ロシアの国歌はクラシックの趣を感じさせる素晴らしい曲で、ロシア人の音楽性の高さに感心するとともに、無下に戦争の中にあるロシアの人々の自由と幸せを願わずにはいられない(是非一度聞いて頂きたい)。そしてギリシア国歌はこれらの国歌とは一線を画している。先に述べた様に「自由への賛歌」という題が示すように、今我々が享受している自由というものは我々の先祖ヘレネ人の血と骨で築き上げられたものであると、さすがにギリシア哲学を生んだ民族の誇りを高らかに歌い上げている。きっと私のフルート演奏を聴きながら、心の中でこの歌詞を歌っていたと思われる。なるほどギリシア国民としての誇りと自分自身の誇りが一体になる、ばらし歌詞とメロディーでギリシアの人々の魂の奥に響く国歌であること納得した。人を束ねて集団行動を煽る行進曲には向かない曲である。最後にギリシア国歌の楽譜を紹介して口笛ででも歌って頂ければ幸いである。
	
	
おわりに 
	
この度旅行先のギリシアの国歌をフルートで演奏し、素晴らし出会いがあった。国歌がその国の人々に心から愛され、また自分たちの国歌を外国の見ず知らずの旅行者の演奏を聴くということは非常に感動的で嬉しく感じるようであった。そして訪問先の国の国歌を演奏することは、ささやかではあるが国と国との友好に寄与するものと思われた。音楽は言葉の壁を越えて人と人が理解し合い、お互いに敬意をもって接するために大きな力を発揮するものと思われた。
	
	
完
 
	
	
	
	
	
	
	
	
	
	
	
	
	
	
			
			
			
			
			
			
			
			
			
			
			
ファリド館長のFriendship Memorial Tea
			
			
岡本新悟
	
			
医福誌8月号の特集「平和を考える」にバングラデシュへの医療援助について紹介させて頂きました。その後是非とも紹介させて頂きたいエピソードがあり誌面を頂くことになりました。
	
現在大阪で「大阪・関西万博 2025」が開催されており、私も7月の酷暑の中バングラデシュのパビリオンを訪れました。館内に紹介されている展示物を見ながら、私が持っていたバングラデシュのOkamoto Medical Centerのウエルカムカード(医福誌8月号で紹介)をスタッフに見せて自己紹介しました。
	
するとそのカードを見た別室にいた館長のファリド氏が、私を丁重に部屋に招き入れてくれて、バングラデシュのOkamoto Medical Centerを紹介をすることとなりました。私のところに留学してきたレザ医師の話から、ガジプールの村人の大歓迎の話、そしてノーベル平和賞のユヌス教授との面会などかつての思い出を話しました。彼にとって日本での自国のパビリオンで聞く母国の懐かしい話に感動したようでした。そして彼は是非この日本とバングラデシュとの友好の証でもあるOkamoto Medical Centerの事をバングラデシュパビリオンで紹介できる場を作りますと言ってくれました。そして彼は自ら入れてくれたすばらし香のお茶を御馳走してくれました。私はそのお茶がおいしかったので、彼にこのお茶は心に残る「Friendship Memorial Tea」 ですねとお礼を言いました。そして後ほど展示して頂く資料を送りますと約束して部屋を出ようとしますと、彼はわれわれをパビリオンの中にある日本とバングラデシュとの友好のコーナーに連れて行ってくれて、記念撮影することになりました。(写真1)。
	
	
	
	
私にとってバングラデシュは医療援助での長い付き合いですが、偶然訪れたバングラデシュのパビリオンでここまで丁重に、また敬意をもって対応してもらえるとは思ってもいませんでした。そして帰宅してからOkamoto Medical Centerの紹介の冊子と、医福誌8月号の原稿を一部改訂して作成した冊子に、レザ医師と村人からの感謝の気持ちであるウエルカムカードについても紹介しました。それらを送ったところ1週間後にはパビリオンの入り口近くと出口近くに、私の送った本が目につくようにラックに並べて紹介してくれていました(写真2)。
	
	
	
さらにレザ医師からファリド館長に直接連絡してくれて、このカードをもって来た方々にはバングラデシュを訪れる方に対する歓迎と同じように礼を尽くしてくれるようにと取り次いでくれていました。そのため後日何人も方から、訪問を歓迎していただき、お茶「Friendship Memorial Tea」まで頂きましたと報告してくれました。このバングラデシュを訪問したときの歓迎の約束であるウエルカムカードが、日本にあるバングラデシュのパリビオンでも、そのカードの心を重く受け止めて歓迎してくれることに感動しました。医福誌8月号の特集である「平和を考える」にふさわしい出来事で、このような些細な交流から平和への道が開かれるという事を身をもって経験し紹介させて頂きました。そして大阪・関西万博の会期中に医福誌8月号を持ってパビリオンを訪れ、「Dr. Okamoto introduced me to visit you」と館長のファリドさんに声を掛けて頂ければ、彼もまたその話を聞いたレザ医師も喜んでくれるとおもわれます。
			
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	Okamoto Medical Center の紹介スライド集
		
	
 			
			
			
	
			
			
		
			
			
バングラデシュへの医療援助から平和を考える
畿央大学客員教授
	
	
はじめに 
世界各地に紛争と戦争が絶えず、生まれて間もない幼子や子ども達が砲弾の犠牲となっている。一体世界はどちらに向かって進んでいるのか、また自分がなすべきことは無いのか「平和を考える」きっかけとなった。人の社会における争いや戦争の根本的な原因は「不平等と格差」にあり、それを解消するために「助け合って歓びを分かち合うか」か「奪い合って恨みあうか」で、平和への道が開かれるか、戦争に突き進むかが決まる。そのような観点から個人ができるささやかではあるが発展途上国への医療援助も一つの平和への一石と考え、私が15年前から続けているバングラデシュへの医療援助を紹介し、改めて「平和を考える」という視点から振り返ってみた。
	
	
1. バングラデシュへの医療援助をはじめたきっかけ 
私が奈良県立医科大学に在籍中、バングラデシュからある青年医師が私のところに留学を希望してきた。ムハンマド・セリム・レザという当時29歳のドクターで、私が開発した成長障害の早期発見のスクリーニング法(WHAMES法)を自国でも活用したいとの希望であった。彼は私のところで4年間成長障害の診断から治療を学びながら内分泌のフェローシップを取得した優秀なドクターであった。 そして彼が帰国するに際して、せっかく日本に来たのだからと東京の学会のついでに「はとバス」で東京見物を一緒に付き添うことにした。そして今でも鮮明に思いだすが、浅草寺の境内の屋台で簡単な食事をしているとき、彼が急に緊張した面持ちで上達した日本語で「先生お願いがあるのですが、私の故郷の人口20万人のガジプールの村には病院がありません。私がお世話になった村の人々のために診療所を建てたいのです。先生そのための資金をお借りできませんでしょうか」と切り出された。突然ではあったが彼との4年間の付き合いで彼の人柄を十分理解しており、その時即決で「何とか援助しましょう」と答えて資金援助を約束した。そしてちょうどその年の10月に私が大学の退職が決まっており、その時の退職金を全額、妻には内緒で援助することにした。その資金は「岡本海外医療援助基金(マンゴー基金)」として病院の建設と薬剤の購入に充てるよう彼と約束し返済は求めないことにした。
そしてその資金を基にレザ医師は1年がかりで入院設備のある決して大きくはないが診療所「Okamoto Medical Center」を開設し、毎日多くの患者さんを診察していますと診療所の発展を逐次報告してくれることになった。以上が私が発展途上国への医療援助は始めたきっかけであった。
	
2. 医療費を払えない患者のためのマンゴー園の建設 
レザ医師から診療所の状況について報告を受ける中で、近隣の村からも多くの患者さんが診察に訪れ、その中には医療費を払えない患者がある一定数あることが分かった。しかし彼はお金が払えないからと言って診察しないわけにはいかず、日本の様な保健診療システムがなく、私の援助で薬を無償で渡すことにしていた。今後その様な患者さんが増え続けるとは明らかで、病院の維持が困難になることが危惧された。
そこで私は中国の名医の称号である「杏林」の故事を思い出した。医師の薫奉は医療費の払えない患者には庭に杏の苗を植えることで無償で治療を施していた。それが大きな杏の林となって奇特な医師のたとえを「杏林」と賛辞を添えて称するようになったという。私は「これは素晴らしいマンゴーの産地であるバングラデシュでもいける」と考え、2ヘクタールの土地を購入し、私の学生時代の同窓生や患者さんにマンゴーの苗を1本1万円で買ってもらうことにした。そして寄付していただいた方の名前を付けて植樹することにした。
この15年間に350名の方から総額1700万円の寄付を頂き、マンゴー園から毎年素晴らしいマンゴーの収穫がありその収益で医療費を払えない患者さんの薬代を補うことができている。
	
3. 身寄りのない寡婦のためのマンゴーホーム建設 
レザ医師が近隣の村にもバイクで往診にいっている中で、主人に先立たれたり、息子を病で失ったりで身寄りのない寡婦がすくなからずあり、雨風も吹き抜けそうなかやぶきの小屋に住んでいる写真が送られてきた。その老婦のさみしそうで哀れな姿をみて、社会保障制度が行き届いていないバングラデシュの現状を目の当たりし、遠い国の事とは言え隣人である彼女達に何か手を差し伸べないではいられないとの心に動かされた。そして身寄りのない寡婦のための「マンゴーホーム」の建設を思い立った。私の私財とマンゴー園からの収入を併せてマンゴー園の中に二階建てでホームを建設し、二階が居住区で下の広間は手仕事で収入を得るシステムを考えた。
現在そのホームはレザ医師のお母様がマザーとして面倒をみてくれている。私も身寄りのない寡婦がここで生活できていると聞いてほっとしているのである。
	
4. バングラデシュへの訪問とノーベル平和賞のユヌス氏との面談 
診療所とマンゴー園が完成して2年目にレザ医師から、是非バングラデシュに来て Okamoto Medical Center とマンゴー園を見に来てくださいと連絡は入った。私と妻は年末年始の休みを使って診療所のあるガジプールを訪問することにした。12月の30日にダッカに降り立って、空港から300Km東方にあるガジプールまで舗装していない道を5時間かけてやっとたどりついた。
初めてのバングラデシュはまさに日本の明治時代に迷い込んだような別世界で、確かに世界でも最も貧しい国であった。そして村に入ると多くの人だかりがあり、そこに診療所があった(写真1)。写真で見るより診療所内は広く、すでに私と小児科医の妻のために診察の準備がされていた。
	
	
 そこで私達を待っている患者さんを診察することになった(写真2)。日本で高度の医療が当然と考えていた私たちにとって、検査やレントゲン装置が無い状態での診察は、まさに訴えと身体所見のみでの診察で、レザ医師がいかに真剣に医療と向き合っているか理解できた。そして何人かの患者さんには私から薬を無償で渡すようにレザ医師から依頼された。診療が終わったのが夕方でそのまま近くのマンゴー園まで歩いて訪れた。私の夢をそのまま彼が誠実に進めてくれているのを見て安心し、先々の発展が楽しみとなった。
	
	
	
そしてレザ医師は私達がバングラデシュを訪れる前に、貧しい人のための銀行である「グラミンバンク」の創設者で2006年ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏との面会を予定してくれていた。あの有名なユヌス教授と面会して直接話ができることに緊張していた。面会は年を越して1月1日午前で、警備が厳重なダッカの「ユヌスセンター」を訪れると、女性秘書が「お待ちしていました。」と最上階にあるユヌス氏の部屋に案内してくれた。ユヌス氏は穏やかな笑顔で私達を迎えてくださり、ここに掛けて話しましょうとテーブルの処に席を用意して下さった(写真3)。そして予定の時間をはるかに長い面談で、ユヌス氏の人を引き付ける魅力ある人柄に圧倒された。
	
	
	
 そしてもっとも印象に残った話であるが、バングラデシュの医師たちの多くは高額の給与を得るためにアラブ諸国などの病院に出かけて行くため、バングラデシュには医師が不足しているのであるとのことである。またナースも同じで近隣諸国へ出かけ家族への仕送りのために国内に残らないということである。富める国と貧しい国の医療の格差と実態を教え諭された思いであった。そして妻は女性医師としての立場から、日本でのいろいろな女性の問題を紹介した。ユヌス氏はバングラデシュの女性問題にも取り組んでおられ、妻と意気投合して話に花が咲いた。そしてユヌス氏との素晴らしい思い出をもって日本に帰ってきた。
その後2024年にバングラデシュの政権に対する学生たちの不満から暴動に発展し、クーデターで大統領が退陣させられた。その後の暫定大統領にユヌス氏が就任し、新たな国造りに尽力されている。今年バングラデシュを訪問する時には是非ユヌス氏と再会を果たしたいと考えている。 
	
	
5. その後の発展と保健文化賞受賞から牧場建設まで 
その後Okamoto Medical Center は順調に発展し、発展途上国に対する医療援助の功績とマンゴー基金による資金援助のアイディアが評価され2020年に第00回保健文化賞を受賞することになった。そして皇居にて天皇皇后両陛下に拝謁するという栄誉に浴することになり、その場で「Okamoto Medical Center はバングラデシュで日本の病院として村の人々に心から信頼されて発展しております。」と紹介した。そして皇后陛下からは「素晴らしいお仕事ですね頑張ってください。」とお言葉を頂いた。
そして最近病院をリニューアルし、また私が健康に恵まれて80歳まで診療を続けられていることに感謝し、使わなかった年金を基に「 Okamoto Dairy Farm」という牧場を建設し現在牛舎までは完成している。そして乳牛を飼育して乳製品で病院の経営を維持することを考えている。
 発展途上国の医療援助は医療機関の建設だけでは成り立たず、それを維持するための持続的な収入源となるようなバックアップシステムが必要なのである。これは私がバングラデシュという発展途上国の医療援助から学んだ事である。
	
6. 寄付を頂いた方に村人からの感謝を表すウエルカムカード 
Reza医師は以前からガジプールの村人がこの医療支援に心から感謝していることから、寄付を頂いた方々に何かお返しできる方法は無いかと相談してきていた。私は最初にバングラデシュを訪れた時の村人たちの村を上げてのもてなしに感激したのを思い出した。そして彼と私の発案で、もし「寄付を頂いた方がバングラデシュを訪問したときには村を上げてもてなします」と明記したカードを作成し、そのカード(写真4.5)をレザ医師から寄付を頂いた方にプレゼントしてもらうことにした。
	
	
	
そのカードの裏には下記の様に刻印されている、
	
We appreciate your kind contribution.
Dr. Mohammad Selim Reza
	 
7. 発展途上国への医療援助から「平和を考える」 
私の続けている発展途上国への医療援助が一体「平和を考える」という観点からどの様な位置づけで評価できるか振り返って見ることにした。確かに援助を受ける発展途上国の方々からは心から感謝され、信頼されていることから日本とバングラデシュの小さいが平和の礎となっている。一方私達援助する側の立場からみて「支援に対して感謝されている」との思いは、支援を受ける国の人々にたいする親近感と兄弟愛を感じることになり、平和への道であることは確かである。さらにこのバングラデシュへの医療援助に共感して寄付を頂いた多くの方々の心は「この寄付が人々の支えになる」と心からの奉仕の心で寄付を頂いており、与える者与えられる者が共に心に平和の火を灯しているのである。
そして最後に紹介しておきたいエピソードであるが、東日本大震災で、製薬会社が被災して甲状腺ホルモンの補給が止まった時、レザ医師から甲状腺ホルモンを1万錠が送られてきた。その大きいなパッケージに「これは私から日本の皆様に対するお礼の印です」と書いてあった。私は胸が熱くなり「助け合って歓びを分かち合うことで平和へ道が開かれる」小さいが「平和を考える」原点があると確信した。
	
完
	
資料: 
1.バングラデシュへの道 岡本新悟
	
お願い: 
乳牛を飼育する牛舎はできているのですが、コロナ禍からの円安で資金が不足して乳牛の購入ができておりません。マンゴー基金としてご支援を頂ければ幸いです。
振込口座: 
南都銀行桜井支店(店番240)
	
レザ医師からのお願いの手紙: 
Thanks a lot for our kind contributors 
May God bless us all. 
	
支援して頂く親切な方々へ感謝をこめて 
われわれすべての上に神様の祝福がありますように。
	
	 
	
	
	
	
 	
			
			
			
			
			
			
			
			
			
			
			
講演
若さと健康を保つための日々の心がけ
-ドクターの私はどうしているかー
元 奈良県立医科大学教授
	
講演要旨
ヒトは歳をとるに連れて自身の健康状態と、老後に不安を抱くようになり、
夢と希望に満ちた若かりし頃に戻りたいと願う。しかし「今の自分を最高に
生きる方法」を人生を豊かに生きた先人達から学び、われわれも若さと健康を
維持しながら豊かで楽しく生きて行きたい。
今回は感銘を受けた先人たちの生き方を紹介しながらドクターである私が
どのような点に日々心掛けているかも紹介したい。私の基本的な考え方は
"Multiple brain field stimulation theory" という「興味のあることは何でも
トライして脳を刺激する」とする極めて明快な仮説で、具体的は方法を紹介
しながら、最後に私のフルートとアルトサックスの演奏を披露したい。
 
    
       
	 VIDEO 
 
VIDEO 
	 
	
 
	
	演奏会でのフルートとアルトサックスによる
	
(以下はこの講演の時に紹介するサムエル・ウルマンの詩である)
	
	Youth -青春-
	Samuel Ullman(サムエル・ウルマン)
Youth is not a time of life; it is a state of mind; it is not a matter of rosy cheeks, red lips and supple knees; it is a matter of the will, a quality of the imagination, a vigor of the emotion; it is the freshness of the deep springs of life.
 
青春とは人生のある時期を言うのではない。それは心の様相を言うのだ。それはバラ色に輝く頬や、艶やかな唇、しなやかな足をさして言うのではない。それは確固たる意志、優れた想像力、生き生きとした情熱、そして命の源泉から湧き出る新鮮な力をいう。
Youth means a temperamental predominance of courage over timidity of the appetite, for adventure over the love of ease. This often exists in a man of sixty more than a boy of twenty.  Nobody grows old merely by a number of years. We grow old by deserting over ideals.
青春とは怯懦を退ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心。こう言う様相を青春と言うのだ。ときには若さのただ中にある20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき、はじめて人は老いる。
	
Years may wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, fear, self-distrust bows the heart and turns the spirit back to dust.
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失うときにはじめて精神はしぼむ。苦悶や、恐怖と不安、失望、こういうものこそ心を萎えさせ、精気あるある魂を塵芥に帰せしめる。
Whether sixty or sixteen, there is in every human being's heart the lure of wonder, the unfailing child-like appetite of what's next, and the joy of the game of living. In the center of your heart and my heart there is a wireless station; so long as it receives messages of beauty, hope, cheer, courage and power from men and from the Infinite, so long are you young.
年が60であろうと16であろうと、人の胸には驚異を思慕する心がある。それは、おさな児のような尽きぬ未知への探求心と、生きることの驚異と歓喜である。吾々の心の奥深く、美しいメッセージや、希望と歓び、そして勇気から湧きでるパワーを感知する見えざるセンサー(wireless station)がある。そこに霊感を受ける限りあなたは青春の中にあるのだ。
When the aerials are down, and your spirit is covered with snow of cynicism and the ice of pessimism, then you are grown old, even at twenty, but as long as your aerials are up, to catch the waves of optimism, there is hope you may die young at eighty. 
霊感が絶え、精神が絶望の雪におおわれ、悲嘆の氷に閉ざされるとき二十歳だろうと人は老いる。頭を高く上げ、希望の波をとらえるかぎり (there is hope you may die young at eighty) 八十歳であろうと人は青春の中に生きる。
2022/11/17
	
 
			
			
			
	卒寿(満九十歳)を迎えた患者さんへのお祝い
	岡本内科こどもクリニック
	近年満九十歳を超えて誰の介助もなく元気に診察を受けに来られる患者さんが少なくないことに気づいた。かつては満70歳をもって古希と称し、家族から祝ってもらうのが習わしであった。古希の言葉は杜甫の詩の一節である「人生七十古来稀なり」に由来するが、今の日本の長壽社会では満九十歳をもって古希に符合するようである。私自身古希を迎えて県医師会の「健勝会」に参加しフルート演奏などを披露させていただいており、まだまだ元気に自分の医学の専門領域にも夢をもって学会発表を続けている。そのような私の立場からみても卒寿を元気に迎えられる患者さんが羨ましく映るのである。ある患者さんは35年間インスリン治療を続けられ、自己管理も完璧で全く合併症なく九十歳を迎えられた。その患者さんは「先生にあの時インスリンをすぐ開始するようにと勧めて頂き、今まで元気に来られました。ちょうど昨日満九十の誕生日を迎えることができました。ありがとうございました。」とお礼を言われた。その時長年インスリン治療を続けてこられたこの糖尿病の患者さんの姿が神々しく見え、「私から何かお祝いをさせて頂きます。糖尿病の患者さんの手本になる自己管理ですから。」と言ってその時は診察を終え患者さんを見送った。そしてこのような患者さんの卒寿のお祝いに何が良いかと考えあぐねた末、私が時々散歩の途中に立ち寄る法隆寺の奉納瓦を思いだした。瓦に自分の願いを筆でしたため奉納するのである。それをお祝いの記念にすればよいと思いつき、瓦に患者さんの名前と「満九十歳を迎えられ心よりお慶び申し上げます。これからも益々お元気で過ごされますようお祈り申し上げます医師 
	
	
	岡本新悟」 (写真1)と書いてプレゼントすることにした。
それを患者さんに持ってもらって、首からお祝いの金色のレイをかけ、私と一緒に記念写真を撮ることにした。記念の瓦は後程法隆寺に奉納し、患者さんとの写真は額に収めて御本人にプレゼントするのである。写真2は前述のインスリン治療の患者さんで、ナースも一緒に診察室で写真を撮った。写真3は父の時代から当院に来られている患者さんで、ご主人が56歳で亡くなられたが、息子さんが親孝行で一生懸命面倒をみておられている。ご本人はいつも周りの人々に感謝しながら過ごしておられて幸せな顔をされている。このように今まで奉納瓦にお祝いを書いた患者さんが他にも多くおられ、毎年このお祝いを送ることが私にとっても喜びである。大学病院勤務では思いつかない患者さんへの思いであり、開業医の幸せを感じながら体力と能力の続く限り患者さんと向き合いながら長生きしたいと願う毎日である。(了)
2021/9/16
			
 
			
			
	アムステルダム駅でピアノを弾くアフリカからの難民青年
	岡本新悟
	私はテレビで放映されている「駅ピアノ」が好きで、通りがかりで演奏する人のエピソードと演奏される音楽を聴きながらその人の人柄や人生を想像するのが楽しみである。普段演奏会やテレビ録画の演奏ではミュージシャンのプライベートな部分はあまり紹介されず、演奏そのものを鑑賞しその素晴らしさに感動を覚え心から拍手を贈っている。
	しかし今回たまたま観ていたオランダのアムステルダム駅での「駅ピアノ」の映像に何人かの通りかかりの人がピアノを弾いては自身の音楽に対する愛情や、いかに音楽で心が救われたかを自己紹介していた。その中でアフリカからの難民でやっとオランダンに辿り着いた黒人青年がピアノを弾いた。決して上手とは言えないがそのリズム感と彼の歌とピアノが素晴らしくマッチしてついつい彼の手元と表情に見入ってしまった。
	そして周りのおおくの人々から拍手を贈られ恥ずかしそうに自己紹介していた。彼は今なお内戦がつづくアフリカから多くの人々の助けを得てアムステルダムに辿り着いたとの事で、まずは感謝の言葉から始め、今は仕事が無くて困っていると。しかしこのピアノを弾くことで全ての辛さから解き放たれて天国に居るような気分になると。
	彼はピアノを弾き終わって "I can come through Heaven by playing piano" と言った様に聞こえた。彼の今の日常は決して我々から見て幸せとは思えないが、彼の歌とピアノに込められた喜びと感謝の気持ち、そしてピアノを弾き終えて満面の笑みを浮べ「今仕事は無いがここに居ることがどれ程幸せか」を全身で表現していた。母国を離れ全てを捨てアムステルダムに辿り着き今は仕事も無い彼であるが、幸せとは何かを教えてくれた。アフリカから来た名も知らぬ彼の幸せを祈りたい。
2020/9/6
			
 
			
	バングラデシュへの医療援助10年間の歩み
	岡本内科こどもクリニック
    はじめに 
	私が奈良県立医科大学在職中に指導していたバングラデシュからの留学生の故郷に医療援助として病院を建設して10年が経過した。無医村に新しくできた病院は開設当初から患者であふれ返った。しかし世界でも最貧国であるバングラデシュの患者の多くは医療費が払えず、必要な薬を病院側が負担することも少なくなかった。そのため病院の経済的自立の策としてマンゴー園の建設や、働く場をセットとしたホームの建設を行い、この10年でガジプール地区1の病院に発展してきた。これもこの支援事業に賛同して協力を頂いた日本の方々からの大きな援助によるもので、土地の人々は日本からの援助に心から感謝している。この度この事業の10年間の歩みについて協力を頂いた方々へのお礼も兼ねてレザ医師と私の共著で「Your Dream is My Dream」という本を出版した。また令和元年12月この発展途上国への医療援助を評価して頂き「保健文化賞」を受賞し、皇居において天皇皇后両陛下に拝謁する栄誉に浴することになり併せて報告させて頂くことにした。
	
	Ⅰ. バングラデシュへの医療支援を始めたいきさつ 
	15年前私が県立医大で奉職中、バングラデシュから一人の青年医師Dr. Mohammad Selim Rezaを留学生として受け入れ指導をおこなっていた。彼はバングラデシュ1の名門大学であるチッタゴン大学医学部を奨学生でそれもトップの成績で卒業したエリートであった。私も多くの医師を指導してきたが彼ほど聡明で人格的にも立派な青年医師を見たことが無かった。幸い彼の英語のレベルは私と同程度で意思疎通には不自由することはなく次第に彼の人となりを理解することができ、彼も私に絶大な信頼を寄せてくれるようになった。彼は私の指導に十分応える熱心な学徒で、学会発表や何篇もの論文を書き奈良県立医科大学の内分泌学のFellowshipの資格を与えることができた(写真1)。
	
		
	
	また彼は日本で留学生活を送るなかで多くの方々にお世話になったことについて今回出版した本に特別にページを割いて感謝の意を表している。ふり返って今なお鮮明に思い出す事であるが、彼が4年間の留学生活を終えて帰国するにあたり、東京での学会のあと彼を「はとバス」に乗せて東京見物をさせていた時の話である。浅草寺の境内で簡単な昼食をとっている時、急に彼が神妙な面持ちで「先生お願いがあるのですが」と私を見上げて祈るような目付きで訴えるのであった。「実は故郷の村に帰って貧しい人のための診療所を建てたいのですが、資金を援助して頂けませんか」と言われたのである。彼は県立医大のFellowshipを得たあとアラブの国で高額の給与で勤務医として招聘されていると聞いていた。それが急遽故郷の無医村で診療したいとのことで、彼の思いの急変に驚いた。しかし4年間彼を指導する中で彼の人柄を十分理解しており、彼が今まで全て奨学金でカレッジから大学まで卒業してきた事から、自分を育ててくれた故郷の人々への感謝と恩義を感じていることが容易に想像できた。その時どの程度の金額が必要なのか解らなかったが、彼の帰国と同じ年に私も大学を退職することになっており、退職金が援助として役立てられると考え一瞬妻の顔が脳裏に浮かんだが「I will support your dream.」と約束した。そして彼が帰国する前日に私の部屋に挨拶にきて、「先生どうかここに立ってください、私の国で最も尊敬する人に対する感謝の気持ちです」といって私の足元にぬかずき両手で靴を抱えて額を靴に当てて「先生長い間ありがとうございました」と日本語のあとイスラムのお祈りの言葉で私の幸せを祈ってくれた。その瞬間私の心に「彼は私を絶対裏切ったりはしない、私も彼を最愛の愛弟子としてサポートしてやろう」という心になった。以来私と彼とは親子関係を超える絶大なる師弟関係となったのである。そして彼の帰国に際し彼に「山本周五郎の赤髭診療譚」の話をして「君にバングラデシュの赤髭先生」というニックネームを与える、そしして「 Your Dream is My Dream」と言って、彼の村に診療所を建てる費用を私の退職金全額を基金として使えるように約束して彼を見送った。
	
	
	Ⅱ. レザ医師の帰国から病院建設まで 
	彼は2008年12月に帰国し、彼とはメールで連絡を取りながら病院建設の計画を練った。私は「岡本マンゴー基金」という海外医療援助基金を立ち上げ、そこに私の大学の退職金を寄付して病院建設の資金とした。日本の円とバングラデシュのタカの貨幣価値は5倍以上であるため私の退職金は用地の購入と最初の診療所の建設には十分であった。そして1年間の準備期間を経て診療所が完成しレザ医師と薬剤師、ナース、検査技師を含めた5名のスタッフで診療を開始することになった。私はバングラデシュでも日本の診療所のように患者さんが来てくれれば診療所は経済的に成り立って行くものと思っていた。しかし日本の様な保険医療システムが有るわけではなく、世界でも最貧国であるバングラデシュの人々にとって日々の生活が精いっぱいで医療に出費するということ自体ある意味贅沢なことなのである。これではせっかく手がけた診療所と職員の生活が維持できないという危機感があった。そのため私のアイディアで診療所の近くに新たに2ヘクタールの土地を購入し、マンゴーの木を植えそのマンゴーの実からの収入で貧しい人の医療費に充てるマンゴー園「Okamoto Mango Garden」の建設を提案した。レザ医師も私の計画に驚いたようで農園の購入からマンゴーの苗木の植林そしてブロック塀の建設まで私の計画通りに現地で指示してくれた。このマンゴー園のアイディアは中国の故事にある奇特な医師の話から来ている。その医師は医療費が払えない患者には診療所の庭に杏の苗を植えることで無償で治療を行い、後に大きな杏の林になったことからそのような医師を「杏林」と称するということからきている(私は一時期杏林大学医学部でお世話になったことがあり、その故事が脳裏にあった)。私はその故事を参考にマンゴーの苗を多くの支援者に1本1万円で買って頂き、その寄付金で診療所の設備と薬局を維持することに使わせて頂いた。その後毎年マンゴーの実から30万円程の収入が得られるようになっており、そのお金を身寄りのない寡婦の薬代として提供している。マンゴーの木は毎年大きくなって多くのマンゴーの実が得られるようになってきており貧しい人の支援に十分役立っている(写真2)。
	
	
	
	
	さらに今まで300人近い方々からのマンゴー基金への寄付があり、身寄りのない寡婦たちのホームの建設にも役立っている。このホームは「Mango Home」と命名し、身寄りのない寡婦が身を寄せるホームだけでなく、1階に作業施設を設置して手作業の仕事で収入を得るようにも配慮している。そして病院と薬局とマンゴー園さらにマンゴーホームを併せて「Okamoto Medical Center」として現在以前の診療所を改装し、4階建の新たな病院に向けて建設中である。そして令和元年6月基礎工事と一階のエントランスと診療施設ができ(写真3)さらに2階には産科病棟から手術室への総合病院への発展を考えている。ただ病院からの収入だけでは病院の維持と職員の給与で精一杯の状態であり、経済的に自立できる発展途上国の医療施設の維持とレベルアップをどうするか現在もレザ医師と模索中である。
	
	
	
	
	
	Ⅲ. Okamoto Medical Center の今後の計画 
	以前私と家内が現地を訪れ診療を行った経験から、発展途上国の医療事情は我が国の様な先進国の医療とはいろんな面で想像を絶する違いがあることを実感している。日本の医療施設は独立採算でも施設運営ができる程豊であり、むしろビジネスという一面で発展を後押ししている観がある。しかし発展途上国ではまず医療保険システムや国から補助がなく医療費や薬代は全て自費である。そのため貧しい人々にとって病院は手の届かない別世界なのである。まして国家そのものが政情不安を抱えており医療に十分な予算を組めないのが実情である。この様な発展途上国で個人の医療機関が経済的に成り立っていくこと自体不可能であると言うのが実情である。そのためには医療施設を維持できるための経済的基盤を持たなければ維持できない。その一つの方法として私が考えだしたのが「マンゴー園」であり「マンゴーホーム」である。バングラデシュでの医療援助で私が学んだ事は、「医療費が払えない人々に僅かなりとも収入の場を与え、卑屈な思いをせずに医療が受けられるようにする方法を講ずること」が発展途上国における医療支援にとって重要なことであることが分かった。すなわち患者さんと家族に働く場を与えわずかなりとも収入を得て治療費を支払うという策である。バングラデシュは北海道の広さに日本をはるかに超える一億六千万人の人口がある貧しい国である、一方東南アジア諸国の中でも著しい経済発展を遂げている国である。特に農業と織物産業が盛んで、私のアイディアであるマンゴーなどの果樹栽培や手作業による織物工房とのセットで医療施設を維持する方法こそが他の発展途上国にも可能な方法であると考えている。このシステムについてはノーベル平和賞を受賞したバングラデシュのユヌス学長との会談でも高く評価していただいた。そしてなんとか「経済的に自立てきる医療施設」をと考えてきたわれわれのOkamoto Medical Centerはやっとその基盤ができたというところである。そして4階建の総合病院が完成するまでにはまだまだ日本からの資金援助が必要であるが、レザ医師を始めスタッフも少ない給与で精一杯働いてくれている(写真:4)。そして私の夢は Medical Centerの最上階にナースの教育と日本からの研修医を受け入れる研修センター「Medical Education Center」を設けて発展途上国の医療を体験できる病院にしたいと考えている。
		
		
		
	いずれこの病院が経済的に自立できた暁には奈良県立医科大学付属の海外研修施設として大学に寄付し、さらに発展させて頂ければと考えている。レザ医師も奈良県立医科大学の研究生であったことで、彼もぜひ日本からの研修生を受け入れプライマリケアの指導をして恩返しができればと同じ夢を描いている。そして私のアイディアである「医療施設と地場産業とをセットとした支援システム:Mango Project」により発展途上国の無医村をなくす活動が世界に広がってくれることを願っている。
	
	
	
	Ⅳ.「保健文化賞」受賞と天皇皇后両陛下への拝謁 
	このバングラデシュへの国際医療援助に対してこの度「第71回保健文化賞」を受賞し、令和元年12月18日受賞式後に皇居において天皇皇后両陛下に拝謁する光栄に浴することができた。今回の受賞は団体受賞10団体と私を含む個人受賞5名であった。拝謁式は赤坂御所の「檜の間」で執り行われ、皆が整列して緊張しながら両陛下のお出ましを待った。部屋の奥の扉が開いて侍従の案内で天皇陛下と皇后様がゆっくりとした足取りで入って来られた。そして天皇陛下の穏やかなお顔と皇后さまの優しい笑顔で張りつめた空気が瞬時にしてなごみ部屋全体が温かい雰囲気に包まれた。そして天皇陛下が労をねぎらうお言葉を話された後、皇后陛下とお二人で受賞者一人ひとりの前に進まれ、各自の仕事の内容をお聞きになった。両陛下が私の前まで進んで来られた時にはさすがに緊張を覚えたがバングラデシュの医療事情と現在のOkamoto Medical Centerの発展、そして多くの方々からの援助で発展しておりますと紹介した。陛下はうなずきながら興味深くお聞きくださり、最後に雅子皇后さまから「これからも頑張ってください」と温かいお言葉を頂いた。30分程の両陛下への拝謁は別世界に居るような感じで家内とともに何か満ち足りた気持ちで皇居を後にした(写真5)。
			
			
	
	おわりに 
	この度バングラデシュへの医療支援10年間の歩みについてレザ医師と私の共著で
			
	
	付記: 
	
 
			
	熱中症対策はすでに太平洋戦争中に発見されていた
	岡本新悟 
    はじめに 
	今年の夏も熱中症で亡くなる高齢の方が相次ぎ、テレビの天気予報でも暑さを避けて水分の補給を怠らないようにと注意を促していた。私は熱中症で亡くなる方がニュースで報道されるたびにある内分泌の疾患を思い出す。そしてもう少しその発症のメカニズムから解説されたなら早期に発症を防げるはずであると思っている。今回少し紙面を頂き私の専門の内分泌から熱中症の発症メカニズムとその予防と治療について解説し、先生方のお役に立てれば幸いである。
	
    1)太平洋戦争中に発見されたコーン症候群(原発性アルドステロン症)と熱中症 
	太平洋戦争で日本軍がフィリピンからマレーシアそしてニュギニアへと南方戦線に軍を進めている時のことである。日本軍を阻止するためにアメリカ軍はハワイから兵士を直接軍用機で酷暑の戦地に送り届ける作戦を開始した。すると戦うまえに暑さで倒れてしまう兵士が続出した。これが医学書に記載されている熱中症である。そこでアメリカ軍は「暑さに対する馴化のメカニズム亅解明する為に多くの医学者を総動員して対策に当たった。そこに白羽の矢が立ったのが副腎皮質ホルモンを専門とするコーン教授であった。彼は被験者が暑さに馴化して行く過程で汗や尿中さらには唾液中に排出されるナトリウムの量が減りカリウムが増えることに注目し、その変化に大きく寄与しているのがアルドステロンであることを明らかにしている。そして彼はさらに高血圧と低カリウム血症を呈するある女性の患者を詳細に検討するなかで副腎にアルドステロンを産生する腫瘍があるはずであるとの結論に至り、その患者の了解を得て開腹し副腎に腫瘍を発見した。血中アルドステロンの測定法がまだ確立されておらず、CTなど副腎の解析に必須の画像診断のない時代に副腎にアルドステロンを産生する腫瘍の存在を言い当てたのである。開腹手術に立ち会っていたコーン教授はこの時のことを回想し、術者が「腫瘍があった」と言った瞬間、彼は今この瞬間に一つの疾患が明らかになった事、そしてこのような疾患はけっして少なくはないであろうと言うことが脳裏をよぎり、その後自宅までの帰りみち興奮覚めやらずどのように自宅にたどり着いたか覚えていないと述べている。これがコーン症候と呼んでいるアルドステロン産生副腎腫瘍発見のいきさつである。私はこのたった一例の症例を詳細に調べることから一つの疾患を明らかにしたコーン教授こそが私の内分泌学の中の輝ける巨星なのである。少し横道にそれたが日本軍は暑さにバテタ兵士にタルンデいると喝を入れていたころ、アメリカ軍は兵士が暑さに馴化するためのメカニズムを科学的に解明し南方戦線でアメリカの圧倒的な勝利となったのである。
	
    2)熱中症をホルモンの調節から理解すれば 
	熱中症とは長時間高熱の環境下で水分や塩分の補給が不足した結果発症する、脱水を主徴とする循環不全と多臓器不全と理解されている(医学的には確立された定義はない)。まず過酷な暑さにわれわれの身体はどのように対応するのか、暑さに対する馴化のメカニズムから熱中症を考えてみるとする。汗からの水分と塩分のロスが続き脱水と低ナトリウム血症が起こればそれを補正するように働く3つの調節系がある。そのトップがレニン-アンジオテンシン-アルドステロン系で、腎臓で水とナトリウムの不足を感知し、レニン-アンジオテンシンを介して副腎皮質からのアルドステロンの分泌を刺激し、そのアルドステロンが尿細管に働いてナトリウムと水を再吸収し脱水とナトリウム欠乏を回避するというメカニズムである。さらにそのようなストレス下で下垂体からACTHを介して副腎皮質からコーチゾールの分泌を刺激してナトリウムと水の再吸収を促すとともに糖の供給を促す働きも持っている。また脱水に対しては下垂体後葉からのADH(抗利尿ホルモン)が腎に働き水の再吸収を促して水の保持に働いている。この3系統の働きが暑さに対応できなくなることにより熱中症に陥るのである。この3つの熱中症対応能力は訓練することでレベルアップできることは太平洋戦争のときにすでにアメリカ軍が科学的に証明している。
	
    3)熱中症の予防は可能か 
	エアコンが完備されたわれわれの生活では、夏が近づいて気温が上がってくると少しの暑さでもクーラーをかけるため、身体が暑さに馴れるための時季をなくしてしまっている。そして年中25℃前後の環境で暮らしていためいつしか暑さに馴化できない身体になってしまったのである。即ち暑さに対応してくれるはずのレニン-アンジオテンシン−アルドステロン系を初めとする3系統がレベルダウンしてしまったという事である。そのような状態に酷暑が続き水分や塩分の補給が不十分となると普段元気な者でも熱中症に陥ってしまう。ましてや下垂体や副腎に病気を持っていたり、高齢者あるいは普段高血圧で利尿剤やレニン、アンジオテンシン、アルドステロン系の拮抗薬を服用している患者は熱中症のリスクを有するとして注意が必要である。 そのようなメカニズムから考えるなら、夏の猛暑のまえから時々クーラーを止めて汗をかくとか、日に当たる時間を持つことも必要である。甲子園の猛暑の中で球児たちが熱中症で倒れた話しは聞かない。彼らは野球の練習だけでなく熱中症対策としての訓練もできているのである。
	
    4)熱中症に対する適切な治療とは 
	熱中症の発症メカニズムから考えるなら脱水と低ナトリウム血症を主徴とする急性副腎不全に準じた救急医療を行うことである。基本は生食+5%ブドウ糖補液にハイドロコーチゾンを加えて点滴することである。治療開始まえに電解質を含め血中ACTHとコーチゾールできればレニン活性とアルドステロンの測定用に採血を行なっておき、後程それが熱中症であったかどうか確認が必要である。熱中症であればこの治療で補液が終わるまでに見違えるように回復するはずである。
	
    おわりに 
	本稿はこの夏休みケニヤに旅行中、現地の子ども達が直射日光の酷暑のなか帽子もかぶらず羊を追たり走り回っているのを見て、この国には熱中症というものがないと確信した、小さい時からクーラーもなく暑さに馴化した生活を送っている彼らとわれわれの生活を比べてふっと疑問を抱いた。すなわち環境に適応していくのが進化なら、われわれは生活環境を自分にあわせる生活をして進化に逆行しているのである。熱中症はある意味近代化による生活習慣が引き起こした落し穴とも言える。私はケニヤから帰って以来、暑くてもクーラーを止めて汗をかくsweating timeを適度に続けている。
	
	
	
 
			
	日野原重明先生に学ぶ
	岡本新悟 
    1.はじめに 
	日頃ドクターとして患者さんの健康管理をお引き受けしております関係から、日々の生活が楽しくあるためには普段からどのような心がけが必要か患者さんとの対話の中から思いをめぐらしております。
    最初に「明日の日が待ちどおしくなる生き方」とはどのようなものか。
    2.「明日の日が待ちどおしくなる生き方」とは 
    3.すばらしい明日の日を台無しにするのはいったい何か 
    なんと言ってもせっかくのすばらしい明日の日を台無しにされるのは、日々のストレスやそれから生じる悩みではないでしょうか。これさえ無ければ毎日が楽しいのにと解決できない苦しみにもだえることになります。私も若い頃「悩める自分への賛歌」 と題してこんな詩のような文を日記に残していました。
       悩める自分への賛歌 
      人は日々悩みや苦しみを抱えながらも
      悩みから解き放たれてこの重荷を少しでも軽くして
      一瞬先の命も分からない野の小鳥や動物たちは
      籠の中で命を終える小鳥やリスたちも
      心の翼をいっぱい拡げ小鳥のように青空を羽ばたき 
    こんな美しい世界があるのに悩みなんかいらない
     
    4. ストレスの上手な処理法と上手な脳の使い方 
    5. 脳の機能からみたストレスを処理するメカニズム 
    われわれの脳にはいろいろな情報を処理する脳神経系のネットワークがあります。それは神経線維であるニューロンのシナプスと呼ばれていて何億というシナプスの回路があります。まず外界からの情報が眼や耳、身体全体から脳皮質に情報が伝えられますと、その情報を処理して、どのように行動に移すかといったといった方向付けをします。その上位からの情報を処理してそれをそれぞれの担当に指令を出すところが視床下部という神経系や内分泌系のセンターです。映画のゴッドファーザーを御覧になったことと思いますが、脳の中のゴッドファーザーが視床下部と言えます。そこから命令が下って副腎に神経系と内分泌系を介して刺激が送られアドレナリンやステロイドが分泌されます。この二つのホルモンがストレレスを乗り越えるためのホルモンで脳や筋肉に糖分を送ったり血流を増やしたりして対応します。
    6. ストレスを上手に処理できる人は長生きする 
    7. 偉人達の名言にはストレスを上手に処理する知恵が隠されている 
    古来「名言」とか「遺訓」という、人生の達人たちの残した言葉あります。一体この名言とは何かといいますと、その人が苦難に遭遇したときに会得した人生訓で、言い換えますとその人のストレスの処理法なのです。
    たとえば徳川家康の「己を責めて、人を責むるな」 とか「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、 
    また今テレビで放映中の西郷隆盛の言葉は(西郷南州遺訓)として「事の大小と無く、正道を踏み至誠を推し一時の詐謀を用う可からず」 
    上杉鷹山 国家人民のために立たる君にして 
    キリストの言葉には「汝の隣人を愛せよ、汝の敵を愛せよ」 
    これらの言葉には悩みや苦難などのストレスから自分を解き放つ知恵が隠されています。そのため私は五年前にあしたのなら表彰の特別講演を頼まれたときに名言集から100近い名言を抽出してそれぞれのキーワードをコンピューターで処理次の3項目が最も高得点でした。
    (1) 人を愛する
    (2) 自我や欲に執着せず己を捨てる
    (3) 真理や天命、神を受け入れる
    (4) 人の為に成し、人の喜びを喜びとする
     それを簡単な言葉で要約しますとこの四原則になります
    (1) 人を愛する
    (2) 己を去る
    (3) 天に則した生きかたをする
    (4) 人のために生きる
    これは偉大な故人たちの遺訓や名言の統計学的解析から得られた結論で文章にすると
    人を愛し、人のために生きれば 
    これが偉大な人たちの教訓のエッセンスであり、いろいろなストレスに悩むときにここに帰って考えを変えてストレスから解き放たれて楽しい生き方を模索することであると私も日頃からこの考えを大事にしています。この言葉をそのまま生きてこられたのが日野原先生だと私は感じております。先生とはいろいろなところで懇意にしていただき、先生から直接学ぶこともありましたので簡単に先生を紹介して先生のお考えを日野原語録として紹介します。    
    8. 日野原重明先生とはどのような方か 
    9.どうすれば楽しく生きることができるか、日野原先生から学ぶ 
    先生は人を愛し、「生きるのが楽しくなる十五の習慣」 がありますがよくまとまっていると思います。    
    日野原語録一 
    多くの人と知り合いになってその人の長所を見ようと心がけているうちにその人が好きになりより良い人間関係が生まれてくる。
    (コメント) 私自身も先生と同じく「人の喜びを喜びとする習慣を大事にしています」
    日野原語録二 
    何か自分にとって都合の悪いことが起きてもその責任と原因をまず自分に求めるようにしています。人に責任をおしつけている間、あなた自身の心がどんどん貧しくなっていきます。どんなときも自分のことは自分で責任を持つ習慣が必要
    (コメント) この考え方は人が社会人として生きて行くうえでの必須の考え方で、その考え方が無ければ人間的に成長しないと言えます。
    日野原語録三 
    その日の仕事をせいいっぱいやり、明日について思いわずらわない
     (コメント) 私の場合、今日精一杯努力すれば、あとはどのような結果となっても納得し、最悪でも受け入れる覚悟を持って当たっています。「最悪を受けいれる覚悟」で当たるのも明日を思い煩わない方法ではないでしょうか。
    日野原語録四 
    肝心なのは自分の二十年後をできるだけはっきりとイメージすることであり、こう成りたいと思う人を決めることです。
     (コメント) 日野原先生はウイリアム・オスラーから大きな影響を受けられ必死にオスラーに近づけるように努力されてきました。そして先生は日本にオスラー協会を設立される程オスラーを尊敬されていました。
    日野原語録五 
    鳥は飛び方を
    「体だけでなく、心の持ち方までの自分の決意次第で変えられるということを皆様にわかってほしい」 と日野原先生の本のまえがきに述べられています。そして 良い習慣を身につけるために必要なのは、はじめの一歩を踏み出すちょっとした勇気と決断である
    (コメント) 私もこれは良いと思ったことは即トライして自分の習慣となるまで続けます。それをやらないと気持ちが悪いというところまで続けますと以降はずっと続けられます。 たとえば英語の本を朝一ページ必ず読むとか、健康管理のために朝自分の工夫した We are Looking 体操を必ずやるとかもう二十年近く続けています。
    日野原語録六 
    人間は歳とともに枯れるのではなく成熟するのです。成熟に向かってこれからもいろいろな方面で学び考える習慣を培っていくように努めたい
    疑問が生じた場合、どうしてこうなるのだろうかと結論が得られるまで考え続けること
    (コメント) 考える習慣というのは非常に大切なことで、何か疑問を抱いたときにその原因を明らかにするためにまず自分で考えることが大事です。
       日野原語録七 
    興味を持ったことには、それが今までの自分の専門外であっても
    新しい事にチャレンジするという気持ちには年齢制限はない(コメント) 日野原先生は専門分野以外にも音楽から作詞、オペラのシナリオ、作曲など思いもよらないことにチャレンジされ驚くことがあります。私もいろんなことにチャレンジするという点では先生に引けをとらないと思っています。できるだけ多くの事にトライし趣味も音楽から絵画、作詞、スポーツなど興味があるものなら何でもトライして楽しいものはそのまま続けています。脳の多くの領野を刺激するという点ではあらゆる種類の趣味を持つことが大切です。
    日野原語録八 
    永遠に若い肉体を保つことは不可能です。健康でどんなに鍛え抜かれて体でもいつかは衰えていきます。ところが心は違います。いつまでも歳をとらないばかりか、成長し続けることもできます。
    私が、よく人から若いと感心されるのは、つねに楽しみを見つける習慣があるからだと思います。そのうえ、いつも冒険心を持ち、新しいことに挑戦しようとする心構えをもつことも若さを保つために必要だと思います。
     (コメント) 私の場合も同じで一、二週間先に楽しみとなる予定を入れます。たとえば近くの海でキャンプをするとか、自分で作ったコンサートでフルートを演奏するとか、研究会で自分の研究を発表するなど自分を表現する場をできるだけ多く作ることが大切です。日野原先生の多くのチャレンジも多くの人の前で自己表現することであったと思います。人の前で「かっこよいところを見せる」ということは非常に大切な事だと思います。私にとって「かっこよく生きる」のはポリシーの一つです。かっこ良く生きようとするのはなかなか大変で、人並み以上の努力とパフォーマンスのための心臓が必要です。それは若さの秘訣でもあると思っています。
    日野原語録九 
    集中力を鍛えるために私はどんな短い時間でも無駄にすることなく
     (コメント) 先生はお忙しいので少しの時間でも原稿を書いたり、論文に眼を通したりされています。私の場合、「三十分ルール」とう方法で趣味や勉強、文書の作成など三十分で切り上げるようにしています。それ以上は続けない。そうすると短時間に集中して仕事ができ飽きてこない。三十分づつ同時進行で仕事や趣味を楽しみます。
    日野原語録十 
    (特別講演原稿:於「幸玉会館」平成三十年十一月二十五日)
     
    日野原語録 
    一、愛することを心の習慣にして憎む心を持たない 
    二、どんな時も自分の事は自分で責任をもつ 
    三、明日について思いわずらわない 
    四、目標となる人から学ぶ事の大切さを知る 
    五、良いと思う習慣があったら、すぐにこれを実行する行動力を養う 
    六、考える習慣が好奇心を育み、脳をいつまでの若々しく保つ 
    七、常に新しいことにチャレンジする心を持ち続ける 
    八、楽しみを見出す習慣を持ち続ける  
    九、うまく時間を活用できるように集中力を鍛える 
    十、“Keep on going, Progress  with hope!” 
                              岡本新悟編
     
 
	 
 
			
			
	
		大晦日スリランカの寺院での不思議な体験
	岡本内科こどもクリニック 
	平成二十九年の年末から年始にかけて家内と娘との三人でスリランカに旅行し、大晦日の夜スリランカで最も大きな寺院であるダラダー・マーリガーワ寺院、日本語では「仏歯寺」にお参りすることになった。「仏歯寺」は釈迦の歯を収めている仏教寺院で、寺院の二階の金の廟の中に釈迦の歯が七重の金の容器に収められ安置されているという。一日三回「プージャ」といって廟の扉が開かれ一般公開されるというのである。
	丁度その日の夜七時からプージャがあるとのことでスリランカのガイドに大きな白い石壁に囲まれた境内に案内された。すると見上げるような白亜の大きな寺院の門前までひしめくようにお参りの人で立錐の余地がない混雑である。土地の人々はみな白い衣装に身をまとい手にお供えの蓮の花をうやうやしく持ってゆっくり入り口に進んで行くのである。やっと寺院の中に入ることができ、さらに大きな扉をくぐると耳をつんざくような太鼓と銅鑼の音で鼓膜が破れるかと思うほどの響きで慣れるのにしばし時間が掛かった。全身を揺さぶられるような音響で考える力まで持って行かれるようで、圧倒されながら廟に至る大きな階段に近づいて行った。階段は横に十人ほど並んで登れる大きさで、二階の廟の手前まで大きな回り階段状になっていた。ほとんどが白いサリーで身をまとったスリランカの土地の人々で所々に外国からの観光客のグループが見られた。家内と娘が前でその後を私が手すりをもって一歩一歩上がって行った。一歩上がるのに一分以上かかるゆっくりした流れでしばらく立ち止まることもあった。
	五、六段上がって止まって進むのを待っていると私の背中の腰の上近くをそっと押す人の手を感じ振り返った。すると白いサリーを身にまとった背の低い小さなおばあさんが痩せ細った黒い手を合わせて私の背に乗せているのである。おばあさんと目が合ったとたん私の顔を見上げてニコッと笑ってくれた。やせこけた黒い顔でニコニコとした美しい笑顔に私もできる限りの笑顔を返した。年はとっているがキラキラ光る美しい眼差しと白い歯が印象的で、その時このお年寄りは足が不自由で私に寄りかかりながら私の背中に手を乗せてこの階段を上がろうとしていると思った。一段一段上がるたび私の背中におばあさんの手のゆれを感じ、私もおばあさんの手を引くつもりで二階までの二十段近くを登って行った。途中曲がり角でもう一度振り返っておばあさんの様子を見たが、同じ様に合わせた手を私の背に預けて私の方に笑みを浮かべてくれた。その笑みは背中で手を引いて導いてくれている私に対する感謝の気持ちと理解した。そして二階まで登り詰めた階段の隅にお供えの花があり、それをもらいに列から少し離れしばらくして戻った時にはそのおばあさんはどこにも見えなくなっていた。
	足が不自由なら私の目の届くところにおられるはずであるがどこを探しても、階段の下の信者さんの休むところを見下ろしてもおられない。そのまま拝観者の流れに押されながら金色に輝く廟の前まで来て黄色い袈裟をつけたお坊さんが差し出す銀の盆の上に蓮の花を供えて拝礼して階段を下りていった。
	その後も拝観者の流れに任せながら外にでて、預けていた履物を受け取って夜の寺院を何か不思議が思いを抱きながら広い境内出て行った。その日は満月で東の空にあった月は丁度頭の上に輝いていた。ホテルへの帰り道そのおばあさんの話をすると娘が「それはパパの幸せを祈りながら合わせた手を背中に乗せてくれていたんだよ」と言った。娘の知るところによると、仏教では僧侶の修行として真っ暗なお堂の中で目を閉じて手を合わせ、前の僧の背中に手を乗せて拝みながら数珠繋ぎになって堂内を周回する行があるという。私がおばあさんの手を背中に乗せて手引きしながら二階まで導いていたというのは私の思い上がりで、おばあさんに祈っていただいていたのでる。帰り道ふと自分が診ている患者さとそのおばあさんのイメージが重なって「手助けしているという思いが実は祈ってもらっている」という教えをこのスリランカの旅で頂いた。そして今思い出してもあのサリーを着た小さなおばあさんは一体どういう方なのか、そしてどこに行かれたのか不思議でならない。          
	平成三十年一月二日、帰りの機中で 
	 
 
			
	
		「ひとの喜びをする」おばあさんの話
	
		元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
	
	文末に挙げてある「そんな私でありたい」という私自身に対する自戒の詩の中に「ひとの喜びを喜びとし」という一節がある。
	この「ひとの喜びをする」という言葉には想い出がある。
	
		平成二十九年三月記
	
	あとがき 
	
		この原稿を投稿して何日かして夜中に書庫を整理していてかつて読んだ新渡戸稲造の「武士道」の背文字が目に入り何ページかを読み返してみた、その中の「礼儀は優美な感性として表れる」という項に、日本人の心の底にある優美な感受性を紹介している文が目に入った。
	
		完
	
	
		
 
  障害者施設でのコンサート「光の森コンサート」を続けてきて
   元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
    はじめに   
  1年前から知的障害者施設「光の森」の健康管理を担当することになった。ある定期健診の診察が終わってからの事、ちょうどその日は私のフルートの発表会前日であったのでお母さん方に「明日発表会ですので少し聞いて下さい」といってディズニーの「星に願いを」など数曲演奏した。まだ習い始めて5年の拙い演奏に今まで大きな声を上げていた患者さんが一斉にシーンと聞きいってくれた。その瞬間私は音楽こそこの患者さん達と心を通い合わすことのできる言葉であると確信し、以来2カ月に1回のペースでプロの演奏家などを招いて「おかもと先生と楽しむ光の森コンサート」と称して続けている。この度9月2日、第6回のコンサートに私が治療を続けてきた左手のピアニスト鈴木笙太さんに演奏をお願いした。彼の演奏のすばらしさと障害を乗り越えて頑張ってきた姿に感動し涙する人もいた。この経験から医師として医療からだけでなく、自分が興味を抱く医療以外の面からも貢献できるということで小文を寄稿させて頂いた。
  1.「障害者」という表現でいいのか   
  表題にも記載したが「障害者」という言葉を使う時、一瞬心の奥でこの言葉でいいのかなと煩悶していたが、日本語には人格を傷つけない適切な表現が他に無い。英語ではhandicapped や disability という表現はあるが、会話の中では身体的な障害者を physically challenged person、知的障害をmentally challenged person という表現をつかう。それらの表現には障害を乗り越えて生きている勇者といった美しいイメージが込められているように思う。私も障害を有する患者さんと接しているうちに「障害者」という表現に強い違和感を感じるようになってきた。障害者と健常者の隔たりが様々な分野で狭まっている今、そろそろ日本語でも良い表現を考えてもよいのではと思っている。
  2.「光の森」コンサート   
  
3.左手のピアニスト鈴木笙太さんのこと   
第6回のコンサートには私が担当する患者さんでもある鈴木笙太さんに来てもらった。 
4.第6回光の森コンサートでの笙太さんと鈴木ファミリー   
彼のピアノ演奏を聴いて以来、ぜひこの光の森コンサートで演奏してもらいたいと考えており、9月2日神戸からはるばる来て頂いた。この度は笙太さんのピアノ演奏だけでなく、お父さんのピアノとギターそしてお母さんのヴォーカルといった鈴木ファミリー総出演によるコンサートとしてプログラムを組んだ。
	
5.「光の森」のお母さん方に贈る歌を作詞・作曲して   
第1回目の私のフルート演奏からその後プロの演奏家も招いての「光の森」コンサートは今回で6回目となった。このコンサートを企画し、自分も演奏を担当して私は大きな発見をした。それは知的障害を持つ患者さん達が発する大きな声は言葉としては全く理解できないが、それはお母さんや周りの人に自分の気持ちを伝える彼ら自身の言葉であるということであった。演奏が始るとシーンと静かになり、感動的なところでは「アー」とか「ワーア」とか自分でも歌いたいのかメロディーに乗ってくるのである。それで私は彼らの言葉にならない声がお母さんに対する「ありがとう」の言葉であると感じ短い4部からなる詩を書いて曲をはめることにした。
おわりに  
障害者施設でコンサートを続けている方は医師だけでなく、いろんな音楽グループもある。彼らがその様なコンサートに情熱を持って取り組んでいる気持ちは私も経験して初めて理解できた。障害を有する人々に喜んでもらえるだけでなく、私自身も心から楽しく、その場の皆と一体になった喜びがあるのである。私は医師としてこの様な活動を一つの使命として続けて行きたいと思う様になり、左手のピアニストである鈴木笙太氏をここに紹介し彼のこれからの活躍も見守って行きたいと思う。
  (2016年9月10日記)
 
  学校健診における成長障害のスクリーニング法
   元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
   要 旨: 医学の進歩は目覚ましく、遺伝子治療も現実のものとなり、山中教授のノーベル賞受賞でiPS細胞による臓器移植もまさに手の届くところまできたと言える。しかし一方で、日常臨床では単に発見が遅れたということだけで生涯知的、精神的あるいは身体的な障害を残す悲惨な例が後を絶たない。著者は成長障害の発見が遅れたために生涯ハンディーを背負って生きて行かねばならない若者の例を少なからず診て来た。最先端の医学の進歩の影で発見が遅れたということだけで当然受けられるべき医学の恩恵を受けられず悲嘆に暮れる青少年達がいるのである。ここでは特に成長障害の早期発見の必要性について実例を挙げて紹介し、著者が考案した学校健診におけるスクリーング法(WHAMES法)の実際について解説する。
  Ⅰ)発見が遅れた成長障害を伴う内分泌疾患の例 第1例 は低身長で二次性徴の発来がないため相談に来た21歳の男性で過去の学校健診のデータから作成した成長曲線(図1) であり、小・中学校と著しい低身長であった。家族もいずれ背が伸びるであろうと楽観的に見ていて検査を受けさせることは無かった。検査の結果、成長ホルモン分泌不全性低身長と下垂体性の性腺機能低下症を伴う例で、原因は出生時に逆子で難産であったため下垂体茎が断裂しその後成長ホルモンと性腺刺激ホルモンの分泌障害を伴ったことが明らかになった。性腺刺激ホルモンにより治療を続け二次性徴は完成させることができたがすでに骨端線は閉鎖しており成長ホルモン治療の適応とはならず155cmの低身長である。
  (図1)
  第2例 は大腿骨頭滑り症で整形外科に入院してきた16歳の女性で、(図2) 。しかし学校側からは検査を受けるようには指示されておらず放置されていた。結局橋本病による甲状腺機能低下症で、診断後甲状腺ホルモンの補充療法を開始し粘液水腫様の特徴は消失し元気で知的にも改善した。しかし既に初潮を迎えていたため最終身長は145cm程度に止まった。
  (図2)
  
   
  Ⅱ)発見がおくれる原因はどこにあるか 成長障害を伴う内分泌疾患の発見が遅れる原因 
  ?以上のアンケート調査から生活を共にする両親の眼からは発見が困難であり、本人もどこに相談に行けばいいのか分からないというのが現状であった。そこため成長を客観的に評価し問題のある例をスクリーニングできるシステムが是非必要であると痛感した。そのような対象が学童期から思春期前後であることから学校健診のシステムに注目することになった。?????????? 
  Ⅲ)学校健診におけるスクリーニングの重要性 
  その眼で学校健診を見直してみると、成長障害のスクリーニングを行うに当たって学校健診は次のような利点を有しており、現在行われている学校健診に組み込むことができるスクリーニング法の開発と導入が必要であると考えた。
    成長障害のスクリーニングとしての学校健診の利点 
   以上の利点を考慮して学校健診で学校医が養護教諭の協力のもとに成長障害を発見するためのスクリーング法(WHAMES法)を考案し、実際の学校健診でその有用性を証明することができた。Ⅳ)早期発見のためのスクリーニング法(WHAMES/ウェイムス法)の実際 W eight:肥満ややせ 、H eight:低身長や高身長、A ppearance:顔貌や体型が病的かどうか、M entality:知的能力の低下:E motion: 情緒の異常や行動異常、 S exual development:性早熟や性発育の遅れについての6項目をとり上げ、検診時にその項目が瞬時に脳裏に浮かぶようにその頭文字をとってWHAMES(ウエイムス)法とした。そして内科検診では同じ年齢の児童・生徒をグループの中で観察しながら目の前の一人をWeight, Height, Appearance、Sexual development について10数秒以内に異常があるかどうかを判断することは可能である。そして異常があると思えばその項目の頭文字を使ったシンボルマーク(たとえば低身長であればH↓を、著しい肥満であればW↑)を陪席する養護教諭に名簿に記入させる。各項目についてのシンボルマークを(表1) に示す。そのマークは著しい異常の場合を大文字で、疑わしい場合を小文字で示している。そしてWeight, Height, Appearance, Sexual development のうち何らかの項目でスクリーニングされた場合には担任の教諭から普段の学校生活における情緒面や交友関係について(Emotion)、さらに学業成績の推移(Mentality)などを健康管理の参考にするために情報の提供を受けることになる。このシンボルマークを使う理由は成長期の過敏な心を傷つけることの無いように、またデータが散逸しても暗号化されているため個人情報の漏えいの心配が無いようにとの配慮からである。たとえば症例2 で紹介した16歳の粘液水腫の女性が内科健診で学校医の前に立ったとき当然「著しい肥満で、背が低く、顔貌がむくんだようで病的な感じを受ける。」ことは瞬時に判断できる。そこでWHAMES法を使えば「W↑、H↑、A」のマークが付くことになる。担任の教諭からは「最近学業成績が落ち時に授業中居眠りをすることがある」との情報が得られ、「W↑、H↑、A、m」の様なマークとなる。そのような問題のある例を検診の場で見逃すことなく捉え早期に診断と治療に橋渡しをできる一次スクリーニング法として位置づけている。この様に一目見て所見を捉える方法を snap diagnosis と言って内分泌専門医が普段使っている診断法である。スクリーニング法の実際は拙著「WHAMES法」のガイドブック第Ⅱ版3)を参照されたい。
  Ⅴ)スクリーニングで発見された例に対する診断と治療 
  Ⅵ)学校健診におけるWHAMES法の位置づけと今後 
   おわりに 
   参考資料:
   
 
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  「I am a doctor! I am a doctor!」 
  元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
     医師が周りの人々に向かって、自分が医師であることを告知しなければならない事はめったにあるものではない。この夏、私は家族と外国旅行中にバス事故で瀕死の重傷を負った外国人女性を救助する場に遭遇し、I am a doctor!  I am a doctor! と叫びながら医師としての責務を遂行するという貴重な経験をしたので会員の皆様にお役に立てればと報告する。
    事故を起こしたバスに乗り合わせた経緯についても説明を要するため、一部は私事で恐縮だが少し紙面をお借りしたい。
    そのバス事故は、この夏八月八日から十五日の約一週間、長女がロンドンでの留学を終えて帰国するのに合わせてヨーロッパを旅していた途中ベルギーのブリュッセルで起こった。私と妻そして長女、三女、四女の五人の旅行で、末の娘が名作「フランダースの犬」の主人公少年ネロが亡くなる最後の場面に出てくるルーベンスの絵を是非見たいというのでブリュッセルから列車でアントワープまで出かけた。アントワープのノートルダム大聖堂に掲げられているルーベンスの絵はキリストの誕生から、十字架に架けられ最後に天国に昇っていく三部作で圧巻であり、家族揃ってしばし大聖堂の小さな椅子に腰掛けて眺めていた。
    その大聖堂を後にしたのは午後一時頃で、その後に列車でブリュッセルまで戻って四時から市内観光を予定していた。大聖堂からもどる途中アントワープの駅近くのジュエリー店でたまたま素敵なルビーの入ったネックレスに目が留まり、家内に買ってやりたくて思案の末店に入った。しかし店員と値段の交渉に手間取り、店を出ようとしたが引き止められ、結局家内のよろこぶ表情に負けて買ってしまった。しかし強引な店員に仕方なく買わされたような感じを抱いて店を出たときには三十分ほど費やしてしまい、四時からのブリユッセルの観光に間に合わなくなってしまった。
    しかしこの三十分の遅れが、私たち家族を救ってくれたのであった。家内が市内観光のバスチケットを買い求めていたため、残念な思いをしながら諦めて列車に乗った。アントワープからブリュッセルまでは列車で三時間かかるのでブリュッセル中央駅に着いた時にはすでに四時を少し過ぎていた。しかしヨーロッパの乗り物の時刻のいい加減さを知っていた家内は、まだバスが出ていないかも知れないと言って、バス停まで走っていった。すると急いで来るようにと手招きしているのが見え、子供たちと一緒に走ってその二階建バスに飛び乗った。発車まえのバスは八割まで席が埋まっており、二階席の少し後ろに我々全員がやっと座ることができた。遅れて乗ったため二階席最前列の見晴らしのいい席に座れなかったが、まずはバスに乗れたことを喜んだ。バスは我々を待っていたかのようにすぐ発車した。
    しかし後で事故を起こすことになったこのバスは、日本の観光バスとは異なりシートは古く、石畳の道のせいもあって走り出すと案内のテープの声がかき消されるほどガタガタ大きな音を車内に響かせて走った。我々が乗った二階席の天井はビニールのホロで、天気の良いときは巻き上げてオープンカーで走るようになっていた。そのホロがいい加減な作りで汚いのでそっと手で触ってみたくらいである。そしてバスはこの夏伸びた街路樹の枝を天井に「ビシビシ」と当てながらお構いなしにスピードをだして走った。しかし中世から栄えた商業都市ブリュッセルの街は威風堂々としており、古い町並みの中に大聖堂の尖塔が彼らの文化を誇っているかの様であった。
    華美荘厳の道を突き進んだ西洋の美意識から、できる限り簡素な世界に美を求めた日本の建造物がどのように彼らの目に写るのかと流れ行く街並みを眺めていた瞬間、「ドーン・・・ガッチャーン」という音がバスの中に響き渡り、私の顔に空気の塊と一緒に細かい粉塵が突き刺さるように飛んできた。一瞬何が起こったのか分からなかったが、何か大きなものでバスが破壊されたかと思った。私は発作的にシートに身を埋めたが、数秒後バスは急停車した。一瞬の静寂の後、シートから顔を上げたところ、バスのフロントガラスが無くなって、ガラスが飛び散っているのが目に入った。しばらくして「ママー、ママー」と泣き叫ぶ子供の声の方を見ると、床に白い衣服を着た女性が倒れて横たわっているのが目に入った。そしてその横に直径十五センチ、長さ二メートル程の太い木がバスの座席に突き刺さっていた。
    一瞬にして状況は飲み込めた。バスが街路樹の木を巻き込んで二階のフロントガラスを突き破ってその木が飛び込んできたのである。そしてその木に直撃された女性が倒れているのである。しかし向こう向きでうつむいて倒れており全く動かない状態で、どの程度の怪我なのか全く分からなかった。
    私はそのとき「その木の直撃で死んでしまったのでは」と思った、次の瞬間、私は自分が医師であること、そしてこの場に私しか医師が居ないであろうと思ったときにはその女性の所に走りよっていた。そして左手で首を、右手を背中に入れて抱かえあげて私はギョッとした。それを見守っていた乗客もあまりの出血に「オー」と声をあげて後ずさりする程であった。ほとんど顔中血まみれで、右頸部が耳の下から鎖骨の高さまで大きく切れてパックリ傷口が開き、だらだらと血がでているのである。脈はあった。頸部の傷が大きいため右手で開いた傷口を合わせて素手で圧迫した。
    そのとき、私が何者か分からなかったからであろう、ご主人と思われる男性が私の手を振り解いて彼女の名前を叫びながらその女性を抱きかかえようとした。そこで私はとっさに「I am a doctor! I am a doctor!」 と叫んだ。何度も何度も「I am a doctor ! I am a doctor!」と叫びながら右手で止血し、「Give me a clean handkerchief! 」とバスの乗客に叫んだ。素手よりもましであろうと判断してそのテイシュペーパーを束にして圧迫した。そのとき横に居た若いイタリア人らしい女性が恐る恐る震える手で傷ついた女性の頭と体を抱えてくれた。その女性が以後介助役を担当してくれて処置がしやすくなった。
    余程たって、傷ついた女性がうっすらと目を開き、意識を取り戻してきた。彼女は、自分が血だらけで、抱きかかえられていることに気がつき、急に恐怖で体を振るわせた。そしてわたしの顔を見上げ何か分からないことをラテン系の言葉で訴えていることがわかった。私はここでも「I am a doctor! I am a doctor! 」と本人に告げた。しかし本人は小さな声で「 メデイチーノ? メデイチーノ?」と聞き返すだけであった。一瞬私はラテン系では「ドクトル・メイチイーノ」が医師の事と判断し、英語で「 I am a medical doctor! Medical doctor!」と叫んだ。するとその女性は「オー メデイチーノ メデイチーノ」と言って私の手を握り締めてきた。今でもその時の彼女の声と、私がメデイチーノと知って安心して私の手を握り締めた感じを覚えている。
  傷は大きかったが、幸い太い動脈からの出血は無く、頚動脈は大丈夫であった。顔面は右の目の下から唇の上までパックリ開いており、だらだらと出血が続いた。しばらくするともう一人の白人男性が私に白いハンカチを手渡してくれた。それを頸部の傷に当て、顔面の傷はテイシュペーパーで押さえた。頚動脈が無事であった事と、止血により少しずつ出血が止まってきたことで、命は取り留めたなと内心ホッとした。そして他に傷や骨折は無いか、眼球は大丈夫かと握られている右手を無理やりほどいてチェックした。
    彼女に握られている手を解くと、恐怖に震えるように私の手にすがり付くのであった。そして私は「 Your carotid artery is safe, not damaged! Bleeding is improving! You are lucky! You are lucky! 」 と大きな声で叫んだ。本人は私の英語は分からなかったが、先程から介助してくれていたイタリア人女性が通訳してくれ、傷ついた女性が少しずつ安心して私にもたれかかってくるようであった。
    しかしこの間二十分程、なかなか救急車が来ないのには参った。本当にバスの運転手が連絡を取ったのか心配になって、「Call me   Ambulance! Ambulance! 」と叫んだ。窓ガラスが無くなって大きくゆがんだフロントの窓から、時々外を見ては救急車の到着を今か今かと待った。バスはロータリーのセンターにある丸い建物の前で止まったため、その二階の窓にいる人々から私たちの一部始終が手に取るようであった。道路と建物の人だかりとバスの乗客の視線に囲まれて救助に当っていることに気がついたのはよほど時間がたってからであった。そして乗客の方を見ると家内が皆に状況を伝えてくれていた。そこで初めて自分の家族が大丈夫だったのかどうか一瞬不安が頭をよぎった。
    しばらくして救急車が到着し、救急隊が来たときには傷ついた彼女はかなり意識を回復し応答できるまでになっていた。まだ少しずつ出血してはいたが大きな出血はなくなっていた。救急隊員に対して、ここでも私は「 I am a doctor!  Injury is this one and this one.」と説明し、「This log hit her」と左前の座席に突き刺さっている木を指差した。今までの経過を知らない救急隊員と医師は最初から意識があったものと思い、また出血もある程度とまっているものだから、抱えあげて自分の足で歩かせ、狭い二階席からおろした。私も彼女を後ろから抱えながら階段を降りたが、彼女が地に足を付けて歩めたのにはびっくりした。そして救急車に乗せてから医師が全身をチェックしフランス語でなにやらOKらしいことを言った。私は「 If you need I will accompany with her. 」といったがnot necessary. ということで救急車を降りることになった。しかし救急隊の医師が彼女の事故を比較的軽く受け止めているようで心配であったため再び救急車に戻り She lost consciousness in a few minutes. Check her brain! といって再び救急車を降りた。
    五分程の後、救急車はけたたましくサイレンを鳴らして走り去った。そしてバスの方に戻ると、潰れたフロントを取り巻くように乗客と見物人で人だかりになっていた。そして目の前に私の処置の手助けをしてくれていた女性が呆然して立っており、ふと目が合い、彼女の必死の介助に感謝し両手で握手をした。彼女も事故に会った女性の横に座っており、もう少しでその木の直撃を受けるところだったのである。しばらくして私の両手と衣服が血まみれになっているのに気がつき、家内に「あなた血液に気をつけて」といわれるまで血液の危険には気が回らなかった。血液感染の怖さをいやと言うほど知っている自分にとって、迂闊ではあったがそれほど救助に必死だったのである。幸いバスが止まった前のセンターにトイレがあり、術前の手洗いの様に必死で血液を洗い流した。そして血のついた白いジャンパーを手にバスに戻ったときには別の観光バスが到着していた。
  一緒に乗ってきた乗客達が、私に敬意を払って見守っている視線を感じた。わたしが Japanese Doctorであることはすでに皆に分かっており、メキシコから来た学生風の若い男性はたどたどしい日本語で「あなたはヒーローだ。私は日本が好きだ」といってくれた。彼の友達であろう女性が「あなたの行いに感激し手紙を書きたいと言っている。住所を教えて欲しい」と言われた。そして私たち家族と残った乗客は後から来た代わりのバスに乗って、市街観光を続けることになった。
    代わりのバスの二階席の最前列に座る人は無かった。ちょうど事故を起こしたバスと並んだとき、そのバスの天井を見て改めて驚いた。折れて飛び込んできた木のもう一方がバスのビニールのホロに突き刺さっているのである。我々だって危なかったことを思い知らされ、その後の市内観光はうわの空であった。家族が無事であったことに感謝し、しばし流れ行くブリュッセルの街並を呆然と眺めていた。そしてあの時私に「メデイチーノ、メデイチーノ」と言って私の手を握り締めてきた彼女の手は、ヒポクラテス以来、先輩医師達が築き上げてきた、医師への信頼の大きさを示すものであった。窓の外を眺めながら、世界の人々の医師に対する信頼の深さは、ここに見える大聖堂の荘厳さに決して劣るものではないと感じた。そして市内観光のバスを降りてホテルへの道すがら自分が無意識のうちにも傷ついた女性に駆け寄り医師としての責務を遂行できたことに内心満たされた気分であった。 
    稿を終えるにあたり、医師にとってこのような経験は稀なことではあるが、海外での急を要する救助活動の折、周りの人々に自分が医師であることを容易に伝える手段があればと思われた。またあの時、清潔な白いハンカチを携えていたならと振り返った。今後海外旅行には白いハンカチに英語でドクターであることが分かる名刺を一枚入れて胸のポケットに忍ばせておきたい。 (以上は帰りの機中で記憶が覚めない内にとメモ書きしたものである。帰国後厚生労働省が「医師免許その他のライセンスをICカード化し、海外での災害援助活動で身分証明書として使えるようにしたい。」と発表した。問題は多いが医療のグローバル化が進む中で是非実現していただきたいと思った。)   
   
    
  「アルルのビーナス」 -岡本新悟
 
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  災害時におけるホルモン剤補給支援の必要性と支援チームの結成 
   元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
  
  はじめに 
     あの甚大な被害を残した 3.11東日本大震災から2年が経過した。しかし平成24年12月時点で死者が15,879人、行方不明者が今のなお2,712人、そして故郷に戻れない避難者が34万人を超えている現在、過去の災害では済まされない多くの問題を抱えている。災害からの復興と共に、この大災害の経験を次世代に受け継ぎ、次に起こるであろう大災害の被害を最小限に食い止めるための方策が各界で取られている。震災発生当時、被災地からは遠く離れていても何らかの支援活動を行った人々は数え切れない。われわれはその時に行われた支援活動をもう一度振り返り、後世に残すべきノウハウとして次の大災害に備え、常にスタンバイさせておく必要がある。私は内分泌疾患を専門とする内科医であるが、震災当時ホルモン剤の不足で生命の危機に瀕する患者がある一定数あると考え、インターネットで呼びかけ、患者会や報道関係の情報ネットワーク支援を得て、最終的に早稲田大学YMCAのボランティアチームによって豪雪の中を緊急車両でデスモプレシンやコートリル、チラーヂンS等を東北の被災地に送り届けることができた。その時の一刻を争う一部始終は新聞やインターネットでも紹介され、その迅速な対応を高く評価された。 このようなホルモン剤の緊急補給支援を行ったのはわれわれのチームだけであったことから、この全国ネットのシステムを確固たる支援活動として後世に残すべく平成25年3月17日東京の日本赤十字看護大学広尾キャンパスで「災害対策を考える講演会」が開催され、私と早生大学YMCAのチームによる「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」の結成式が執り行われた。そして今後大災害時にこの支援チームの存在を思いだして頂き、現場でホルモン剤の緊急支援が必要となれば連絡を頂けるようここに小文を寄稿させて頂くことにした。
  
  1)3.11東日本大震災でのホルモン剤補給支援活動を振り返って 
     3.11東日本大震災は広域かつ甚大な被害を及ぼした史上まれな大災害であった。その情報は大地震発生から津波襲来によって豊かな東北の自然を丸呑みにして市街地の建造物や漁村が漁船と共に流されて行くテレビの映像が今でもわれわれの脳裏に焼き付いている。町全体が津波に飲み込まれ流されて行く映像を見て、そこにほとんど人影が見当たらないことから、被災地の人々がいち早く非難されたかと安堵した。しかしそれは全く予想外れで、津波に押し流されて行く瓦礫の下に避難できずに飲み込まれ、亡くなられた多くの方々が有ったのである。そして多くの方々が地震と津波さらには福島第一原発事故によって避難を余儀なくされたのであった。これらの情報から多くの人々が自分にとって何ができるかを考え、それぞれの立場でいち早く支援活動が開始された。国や行政の対応の遅さが非難されたことも有ったが、それを補う様に個人のボランティア活動家が被災地に救援に駆けつけた。 私はテレビで映しだされる大災害の映像からそれが自分の地域で起こったならばどのような事態が引き起こされるか想像した。
  
   
  
   
  2)支援活動からの教訓とメールリレーの再現 
     この活動を振り返って次の点を今後の災害時のための教訓とし、いつ災害が起きても支援を必要とする人々に手を差し伸べることができるネットワークシステムを今後に残し維持する必要があると考えた。
  1:被災地に何が必要かを自分の専門領域の知識を駆使し、具体化すること。
     以上の4項目を満たして初めて災害時に機能できるチームとして活動できることが明らかになった。確かにこのネットワークは目に見えないものであるが、3.11 東日本大震災から得られた財産として後世に受け継いでいく責任があると考え、1年後平成24年3月11日の震災記念日に災害時ホルモン剤補給支援のメールリレーを再現すべく「3.11メールリレー:Okamoto- Kano」と称して著者から今後の支援活動の協力を呼び掛ける内容をメールに乗せて各患者会のメーリングリストで転送をお願いした。その結果翌日には早稲田大学YMCAの加納貞彦教授とボランティアチームに届き、いつどこからでもボランティアチームへの連絡が可能であることが確認できた。以上の震災時の経験と今回のメールリレーの再現の結果から、メーリングリストを有する患者会や有志のボランティアが実際ホルモン剤を被災地に届けてくれる早稲田大学のボランティアチームの協力の基に一つのチームとして今後災害時にホルモン剤の補給支援活動を行うことを計画した。
  
  3)「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」の設立と今後の活動 
     2年前の災害時のホルモン剤補給支援に参加した患者会や、福島第一原発事故の状況が不明であったために、若いボランティア隊員の健康被害を防止するために東京から仙台に直行せずに新潟回りとした早稲田大学のボランティアチームを一晩泊めて面倒を見てくれた篤志家など各地で協力してくれた方々との絆は固く、このチームを形有るものとして維持し今後の大災害に備える責任があると考えた。そのため私と早稲田大学YMCAの加納貞彦が発起人となって「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」を立ち上げることになった。
  
  
  4)日本内分泌学会と日本小児内分泌学会への依頼 
     3.11東日本大震災のとき著者からのメールを日本内分泌学会事務局の山口敏朗氏と、森昌朋理事長そして日本小児内分泌学会の横谷進理事長の取り計らいで学会員全員にメールが送信された。ある会員から陸前高田市の患者さんへのホルモン剤の送付を依頼された。この経験から、全国のどこかでホルモン剤の補給支援を必要とされる方の情報が内分泌学会員から得られることが明らかと成った。私共からの要請を受けて現在この二つの学会と成長科学協会でホルモン補給支援システムが検討されている。 学会の支援システムが整いわれわれのチームと協力できるなら今後大きな力を発揮できるものと考えている。 まずはわれわれの「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」がモデルケースとしてスタートし、同じ様な支援チームが拡充されることを願っている。
  
  5)早稲田大学YMCAボランティアチームの活動との協力関係 
     この支援活動で最も大きな役割を担って頂くのは実際に被災地にホルモン剤を届けるという困難な仕事を担当してくれる早稲田大学YMCAボランティアチームの方々である。この活動の位置づけとしてはむしろ早稲田大学YMCAの活動に組みこんで頂くという形でお願いすべきと考えている。また早稲田大学YMCAボランティアチームはこれまでも海外の被災地で活動されており、「ホルモン剤緊急補給支援」を国外の被災地にも広げるべきであるとの意見を早稲田大学ボランティアチームの石戸充氏から頂いている。海外では今まで被災地でホルモン剤の必要性については認識されていなかったことから、今回の経験を海外でも活かすことができればと考えている。国外の場合には薬剤の搬送や国外の医師法との関係で事前に解決しておかねばならない問題があるが、「住む地は異なれども、同朋の求めは同じ」と考えて今後われわれも協力し活動したいと考えている。
  
  おわりに 
     3.11東日本大震災でその災害の甚大さから何とかしなければという素朴な「助けあいの心」から始まった私が送った1通のメールが多くの人々の心に支えられ早稲田大学のボランティアチームに届き被災地へのホルモン剤の搬送が可能となった。振り返って著者自身の人生でこれ程うまく事が運んだ経験は無かった。これはまさかの時にはある目的を共有するならば「助け合いの心」で大きな力が発揮できることが証明された。またメーリングリストによる情報リレーの力も改めて知ることができた。この貴重な経験を埋もれさせる訳にはいかないと考え、また多くの方々の心の支えに対しても礼を尽くして報告する義務があると考えここに小文を投稿させて頂いた。
  
  
  参考資料:
  
  
  
  
 
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  「チューリップと音楽を楽しむ、ふれあいコンサート」
   
  岡本内科こどもクリニック院長 
  はじめに 
  このたび地域の方々の協力で、チューリップの咲き誇る園庭を背景に、当クリニックの駐車場に野外ステージを組んで「チューリップコンサート」を開催することになりました。  トランペット、キーボードそしてマリンバのプロ演奏家の前座として医師の立場で「音楽と健康」という小題で話す場を与えられました。私も小さいときから音楽に親しんできており、現在フルートを習い始めたところで、その「新たに楽器を始める」という音楽体験から健康との関係について私の考えをお話しします。 
   
  1)なぜ音楽は楽しいのか 
  われわれが快い(sense of well  being) 、あるいは楽しい(happy)と感じる感情の起源をたどりますと、それらは進化の過程でわれわれが獲得した良い方向への誘いのメッセージと見ることができます。夕日を見て感激し、野原に咲き誇る美しい草花をみては心が躍る感情は原始の時代にきっと沢山の獲物が得られる喜びと結びついていたものと思われます。 また鳥のさえずりや川せせらぎ、そよ風に揺らぐ木の葉の音に心を奪われ聞き入ってしまうのも、きっとその「音の流れ」と「楽しいこと、嬉しいこと」が何万年という年月を経て、我々の脳に刷り込まれた結果とおもわれます。4億年の人類の進化の中で、きっと快く聞こえる音には危険のない安堵の心と、食べ物が豊かで満ち足りた世界がセットとして体験してき結果ではないかと考えられます。 そしてその快く聞こえる音の流れだけでも我々は満ち足りた感情を呼び起こすことができるようになって、さらにそれを研ぎ澄ましてきたものが、「音楽」として楽しんでいるものそのものでしょう。 今やわれわれは、周りの人々とともにその「音楽」を介して、演ずる者も聴く者も共に感情を共有して楽しめるようにまで築きあげて来た人類の英知の賜物と言えます。そう見れば音楽が楽しい理由、それは「命のゆりかご」だからと言えます。
   
  2)健康とはなになのか 
  近年「健康」という言葉は気軽に使われていますが、その中身を説明することはなかなか難しい言葉です。  心身共に健康という表現を使う場合があり、その感じる場が身体そのものであり、また心そのものであると言えます。  健康とは決して「病気でない状態」ではありません。 私は健康とは「心身ともに快い状態で、生きる中に夢と希望が感じられる幸福な状態」と考えています。英語で healthy は元気な状態ですが、sense  of well being and happy が日本語の健康に相当する表現であると考えています。 ですから健康は決してじっと待っていては得られない心身の状態で、そのような状態に自分を導くためには日ごろの心掛けと努力が必要となって来ます。 我々の大切な一日を「健康」に過ごすためには、心の持ち方、すなわち心の修養も大切であることは言うまでもありませんが、スポーツで身体を鍛えことも大切です。 そこでもうひとつ健康に過ごすための大事なものが「音楽を楽しむ事」なのです。先ほどの説明した様に、音楽は生命の起源からの「命のゆりかご」であり、健康に導くゴンドラなのです。 時間に追いまわされて生活している我々はもう一度自分の「健康」について思いを巡らせて、健康にとっていかに音楽大切かをもう一度見直してみる必要があるとおもいます。
   
  3)音楽は健康に良いのか 
  最近リラクゼーションとして心の癒しに使うだけでなく、病める人の心の癒しを介して、病気の治療にも役立てようという試みが「音楽療法」として注目されています。そのような試みの記録はすでに古代エジプトの時代や旧約聖書にも記載があり、音楽がいかに健康にとって良い働きをするものかを物語っています。確かに快い音楽を聞かせることによって脳梗塞の後遺症の回復が早くなるとか、お年寄りで認知症の方が活き活きとしてきて、食慾も出てきて、中には寝たきりから歩けるようになったという例もあります。 ではなぜ音楽が病気の回復に役立つのかを医師の立場から説明しましょう。
   
  4)音楽は健康にどうはたらくのか 
  われわれの身体はすでに楽器であるという考えがあります。
  一方、音楽は音という媒体を介してわれわれの鼓膜を介し、また身体に直接振動を与えることによって脳にそのリズムとメロディーを伝えます。そしてその情報が体全体に行きわたり、脳だけでなく、楽器としてのわれわれの心臓や肺、血管、神経などにリズムとメロディーを共鳴させて「喜びと健康感」を呼び覚ますと言えます。 音楽と楽器としての体との共鳴こそが音楽による健康への誘いと言えます。
   
  5)フルートを始めて感じたこと 
   われわれは視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚といった五感を持って生活の中の情報を脳と体に取り入れています。音楽を聴く事は聴覚からの情報で、一部は音の振動を肌で感じる触覚も関係しているでしょう。 われわれは、できるだけ多くの感覚からの刺激を維持することが大切です。音楽を聴くだけの音楽療法を「受動的音楽療法」と言います。一方自分で歌ったり、踊ったり、楽器を演奏したりする音楽療法を「能動的音楽療法」といい、その方が脳の活性化、ひいては脳の老化防止や認知症の治療に良いとされています。 認知症のお年寄りに手を叩いて一緒に歌ってもらうのも「能動的音楽療法」として有効です。
  さて私も今までいろんな楽器に手を染めてきました。小学校の時にはハーモニカを高校では中古のオルガンを買ってきて我流で弾いたり、クラリネットにトライしたり、10年前には今日演奏に来てもらっています吉川先生にトランペットを習い、結局3年で挫折しております。 しかし今回は一生付き合って行ける楽器としてフルートを選んで毎週先生に習っております。 フルートを吹く事によって、目で楽譜を追い、耳で自分の音を聴き、指と唇で音の調節をし、そして味覚も嗅覚も総動員してフルートと格闘しています。楽器の演奏には五感の総動員が必要な様です。  
  最後に昨年8月から始めたフルートですが、完成したプロの演奏の前に「初心者のフルート演奏」を余興として聴いて頂ければ幸いです。聴いてい頂いて、自分も何か楽器をやってみようと思われるか、半年もやってその程度かと思われるか、2分間の辛抱で「グノーのアベマリア」を聴いてください。 (完)
  2010年3月31日記
   
  
    
       
    
        
      「音楽と健康」について話す内科医と司会の小児科医 
     
    
       
    
      チューリップコンサート風景 
      チューリップを摘み取る参加者 
     
  
  
  
  
  
  
 
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      あなたが測ってもらった「ホルモン測定値」をどう読むか  
    岡本内科こどもクリニック
  1)はじめに 
  2)上位からの刺激ホルモンとその下位の標的ホルモンの値の見かた  (1)甲状腺ホルモン値の見かた T hyroid S timulating H ormone )は下垂体という脳の中から分泌され、甲状腺ホルモンの分泌を刺激するホルモンで、FT3(フリーTスリー),FT4(フリーTフォー)はいずれも甲状腺から分泌される甲状腺ホルモンです。われわれ内分泌の専門医はまずFT3,FT4が正常域に有るかどうかを判断して、それからTHSがその値に相当する値かどうかという様に、調節がうまく行っているかどうかという目で評価します。例えばTSHが 2.4μU/ml と正常範囲にあり、FT4が0.34ng/dl と低ければ、これは甲状腺が悪いのではなく、下垂体からのTSHの分泌が悪いから結果的に甲状腺ホルモンの分泌が悪いと判断して、頭の中の下垂体に問題があるかどうか調べます。TSHだけからみますと、それは確かに正常範囲にありますから、TSHは正常と判断してしまいます。しかし甲状腺ホルモンのFT4の値から見ますと、「この程度FT4が低ければTSHは正常上限を超えるほど高くなくてはいけない」と判断して「TSHが正常域にあることが異常である」と判断するのです。これがホルモンのデータの読み方の基本なのです。(2)副腎皮質ホルモン(コーチゾール)とその刺激ホルモン(ACTH)の見かた (3)女性ホルモンと男性ホルモンの測定値をどう読むか 
  3)ホルモンの値を読むコツ 
  岡本新悟 画 (2007年 入選作) 
   
   
  
  
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    脳腫瘍術後のホルモン補充療法を受けておられる患者さんのために 
    -第V版-
    岡本内科こどもクリニック院長
    はじめに 
    さらに今回の第Ⅴ版では3.11東日本大震災の時にホルモン補充療法を続けておられる患者さんが治療を続けられなくなり生命に危険があることから、私共のチーム(災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano)が奈良から被災地にデスモプレシンやコートリルなどのホルモン剤を搬送した経験を生かし、今後災害時に患者さん自身がホルモン剤をどのように管理してホルモン補充療法を維持すればよいか、また緊急支援としてホルモン剤を被災地の避難施設におられる患者さんに届けるかについても記載しました。そして災害時にこの小冊子とホルモン剤を肌身離さず携帯して頂き難局を乗り切って頂きたいとの思いで災害時のための項を追加しました。 
    1. ホルモン補充療法の基本とこれからの医療 
    ホルモン補充療法はホルモンの分泌不全や先天的な欠損症に対して、必要とするホルモンをその人の年齢、性ならびにその人の生活状況に合わせて補う治療と言えます。ホルモンそのものは薬物ではなく本来われわれの体の中にあるものですからアレルギーや副作用は無いはずです。しかし補充するホルモンの量が多過ぎたり、少な過ぎたりするとそのホルモンの不足による症状や、過剰による副作用が出てきます。最近ではホルモンの構造を少し変えることによって本来のホルモンよりもさらに求める作用を強く発揮できるような製剤もできています。その場合われわれ医師は特別の配慮をもって副作用が無いかどうか慎重に見極めながら治療しています。  
    現在ほとんどのホルモンは化学的に、あるいは遺伝子組み換え技術によって合成され製剤として使用可能になっています。それらの製剤を使うことによってホルモン分泌不全の患者さんを本来の健康な状態に回復させることは十分可能と言えます。しかしそれらのホルモン剤は経口や注射による補充となりますので、正常の血液中のホルモンの動態を真似ることはなかなか難しいと言えます。そのため内分泌を専門とする医師は工夫を重ねて何とか正常と同じ血液中の濃度を維持できるように治療を行っています。  
    ここでは私が日ごろ行っている下垂体機能低下症の、とくに成長期の子どもさんのホルモンの補充療法を紹介し、少しでも参考になれば幸いです。よろしければこの小冊子を担当医に見せられ御意見を伺っていただいても結構です。私に足りないことがあればぜひその担当の先生からお教えを頂きたいと考えております。医療は医療スタッフと患者さん並びに家族が協力し合ってレベルアップしていくものです。わが子だけでなく、これから同じ病で悩まれる子どもさんの為にも医師に遠慮なく質問してください。それが私たち医師の研究への動機と情熱になるのです。 
    2. 成長期の脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の特徴 
    3. どのホルモン補充療法が子どものQOLに影響を及ぼすか 
    ではデスモプレシン、コートリル、甲状腺ホルモン、GH治療、性腺治療の順に私が行っている治療を紹介します。その内容は日本内分泌学会や発育異常研究会、間脳下垂体研究会など今までに発表した内容の要約となっています。 
    4. 尿崩症に対するデスモプレシン治療 
    また最近、舌下で崩壊して粘膜から吸収させる錠剤「口腔内崩壊錠:ミニリンメルトROD錠」が開発され使用可能となっています。それについては別の項で解説します。 
    (1)デスモプレシン点鼻液とスプレーの差 
    (2)デスモプレシンの点鼻量の決定をどうするか 
    (3)デスモプレシン点鼻の注意と普段の心がけ 
    (4)口腔内崩壊錠:ミニリンメルトの使い方
    ミニリンメルトRは「デスモプレシン酢酸塩水和物」で口腔内崩壊錠として造られています。ブリスターシートと呼ばれる密封シートから取り出してすぐに舌下に置いて待ちますとスーと溶けていきます。そのまま水や食べものを口に入れずに30分程がまんしてください。ミニリンメルトは急速に舌下の口腔粘膜から吸収されますので30分待てば十分量が吸収されます。しかし尿崩症ですから薬が切れて急に水を飲みたくなればミニリンメルトRを入れた舌下を舌で封をする様にしてストローで舌の上を水を転がす様に飲んでください。私が診ている患者さんもそのコツをつかんで今ではストローを使わないでミニリンメルトを舌下に収めながら上手に水を飲んでいます。  
    本来デスモプレシン製剤ですから使用開始からの方法はデスモプレシン点鼻液と同じ要領となります。ミニリンメルトR1錠60μgがデスモプレシン点鼻液の 0.025mlに相当する様ですが個人差がありますので少量から開始する必要があります。この製剤はブリスターシートから取り出しますと急速に水分を吸って溶けて粘調になってしいます。ですから半錠や1/4錠をカッターで切って造る場合即座に密封シートに保存する必要があります。当院の薬剤師はそれを理解して上手に作成してくれています。 
    (5)デスモプレシン点鼻中の補液(点滴)の注意 他の医療機関で点滴を受ける場合があれば、必ず「デスモプレシンを使っています。点滴の量がオーバーになりますと低Na血症になるかもしれないと主治医から先生に伝えるように言われています。」と付け加えてください。 
    また視床下部や下垂体に障害があって尿崩症がなくても抗利尿ホルモンの分泌調整がうまく働いていない場合が隠れていることがあります。その場合、水がオーバーになっても抗利尿ホルモンの分泌が抑制されないため水過剰となり低Na血症が起こります(医療で引き起こされるSIADHと言う)ので、視床下部・下垂体に障害を有する場合には慎重に血液中のNaを測定して管理する必要があります。 
    ミニリンメルトRを使用している尿崩症の患者さんもこの注意については全く同じです。
     この冊子のこのページを担当の先生にお見せするのも良いでしょう。 
    (6)渇中枢障害を伴う尿崩症の治療上の注意 
    下垂体より上位の視床下部レベルまで腫瘍や術後の変化がありますと水分が足りなくても「喉が渇いた」といった感覚が無くなることがあります。視床下部に渇中枢という喉が渇いた感じを促すセンサーが有るからです。もしそのセンサーに障害がありさらに抗利尿ホルモンの分泌が障害されますと、尿崩症があって水が不足しても水を飲もうとしないことになり、脱水と高ナトリウム血症で生命に危険な状態となります。この場合主治医の先生は一日の水分の摂取量とデスモプレシンの量を調節してくれますので水分調節についての説明を納得できるまで聞いて下さい。治療の基本は一定量のデスモプレシンの点鼻を続けながら水分量で身体の水分の収支を調節することで、定期的に血清ナトリウムを測定してデスモプレシンと水の量が正しいかチェックします。尿崩症で渇中枢障害を伴う場合が最もコントロールが難しいのですがコツを覚えればしめたものです。私は全く喉が渇いた感覚の無い尿崩症の子どもさんを治療していますが、お母さんが体重や体温そして尿量を表に記入しながら必要な水分量を割り出して現在は血清ナトリウムも正常維持できており、本人も一定量の水を飲むことの必要性を理解してくれています。
    (7)デスモプレシンの予備の保存と災害時の注意 
    (8)ミニリンメルトRの予備と保存について
     デスモプレシン点鼻液とは異なり災害時における備蓄や持ち出しについてはミニリンメルトRは明らかに勝っていると言えます。ブリスターシートに密封されている錠剤であるためコートリルやチラーヂンSと同じ扱いで保存から持ち出しまで可能と言えます。現在デスモプレシン点鼻液やスプレーを使用しておられる方もミニリンメルトRによる治療を経験しておくことが必要でしょう。そして普段使っているデスモプレシンの量と比較してその効果を体得しておいてください。それを普段の治療に使うのも結構ですが、災害時の備蓄用に20錠程度を持ち出し用のバッグの中に入れておき、定期的に新しい錠剤と入れ換えて災害時に備えてください。ミニリンメルトRがあれば災害時の保存としてはデスモプレシン点鼻液やスプレーは必要なくなり管理や持ち運びにも容易で安心して対応できるでしょう。
    5.ハイドロコーチゾン(コートリルR)の補充療法について 
    (1)平常時のコートリルの補充の基本的な考え 
    (2)コートリルの補充量と配分をどう決めるか 
    元気が無い時には増やしたり、体重が増えてくると減らしたりといったようにはっきりしたデータに裏付けられたものではなく経験的な判断によっています。そこで私は下垂体腫瘍術後で下垂体機能が全く働かなくなった汎下垂体機能低下症の患者さんに協力してもらって、それぞれ朝15 mg、10 mg、5 mgを服用した時の血中のコーチゾールを30分ごとに測定して血中のコーチゾールの推移をグラフ化し、それを組み合わせることで正常のコーチゾールの分泌パターンを模倣する方法を考案しました。実際その方法で何人もの患者さんのコートリルの補充量を算出しますと、いかに個人差が大きいかが分かりました。ある患者さんは朝4 mg服用するだけで2時間後にはコーチゾールが20μg/dl近い値となりますが、他の患者さんでは8 mgでやっと15μg/dl 程度と個人差があります。そのためにこの方法は非常に有用で、現在は10 mgと5 mg服用後の血中コーチゾールのパターンを測定して、血中濃度が正常のパターンを模倣できる服用量を計算して1日必要量を配分しています。そして体重の増加や成長に応じて1年に1,2回現在服用中のコートリルの量で服用後の血中コーチゾールのパターンをチェックしています。さらにそのようなデータだけでなく体重の変化や全身倦怠感や本人の元気さ加減(sense of well being) も総合して判断しています。この方法は私が考案した「コートリル負荷試験 」と称して他の先生方にも使ってもらっています。 
    (3)ストレス時やシックデイのコートリルの増量の仕方 
    レベルA(予知対応補充): 前もって予知できるストレスで、その時のみ少量のコートリルを追加する場合、例えば運動会や器楽の発表会なのがあれば、その2時間前に普段の最少量を追加服用する。私は2 mgのコートリルを1単位として、そのストレスを本人や親御さんと相談して2 mgにするか4 mgにするか決めています。その都度上手く行ったかどうか、体調はどうであったかを後で記録しておき、今後どの程度を追加すればよいかの参考にします。  
    レベルB(軽症シックデイ補充): 感冒や発熱などで全身倦怠感を伴うときには普段の補充量を倍量にして服用させます。特に全身倦怠が強かったり、急な発熱時にはその上に2 mgあるいは4 mgを追加するように指導しています。  
    レベルC:(重症シックデイ補充): 同じ感冒でも下痢と嘔吐を伴う場合にはコートリルの吸収が不十分であるだけでなく、急速に副腎不全に陥る可能性があるため、一旦3倍量のコートリルを服用させて慎重に経過を観察し、その量でもどうしても回復しないようであれば病院に受診するように指導しています。病院でハイドロコーチゾンの点滴が必要か、あるいは入院治療が必要かの判断は親御さんには困難な事ですので、副腎不全が疑わしいときには適切に対応してくれる病院の担当医と連絡が取れるようにしておくことが必要です。感染症があっても普段の補充量の3倍程度は当然必要な量であり、感染を増悪させる心配はなく、その後の抗生剤による治療で十分管理できる量と言えます。この様な状態での副腎不全に対する治療に熟知している医療機関と普段から連携を取っておくことも大切です。私は患者さんに下垂体機能低下症でホルモンの補充量を記したカードを持たせており、それをみれば担当医はハイドロコーチゾンの点滴を行ってくれますし、私のクリニックに連絡が取れるようにしています 
    (4)急性副腎不全に対してわれわれ医師はどういう治療を行うか 
    治療は静脈確保と言って点滴を入れるルートを確保します、そして採血の後そこから100mgのハイドロコーチゾン(製剤としてはソルコーテフやサクシゾン)を静脈注射してから、追って5%ブドウ糖と生理食塩液の同じ比率で入っている点滴を開始し、その中に200mgのハイドロコーチゾンを入れておきます。成人ならその500mlの点滴を約1時間以内で入れるようにして経過を診ます。急性副腎不全ならそれで1時間以内にかなり回復し、本人も「元気になってきた」と答えるようになります。そして状態をみてさらに500ml同じ点滴を追加することがありますが、ハイドロコーチゾンで300mg入れば十分回復する量と言えます。ハイドロコーチゾン100mgは普段のコートリルの服用量から考えますと、とてつもない多い量に見えますが、注射が必要な場合のハイドロコーチゾンの補充は経口剤の5倍から10倍の量が必要とされていますので、急性副腎不全のときの総量300mgは妥当な量と言えます。急性副腎不全の状態から回復してもその原因によっては入院が必要で、その誘因となった感染症の治療を続ける場合もあります。そのような急性副腎不全を呈した場合はその後のコートリルの補充を一旦増量してあらためて補充量を検討することになります。
    (5)患者さんの自己採血によるコーチゾールの測定法の開発 
    ― 当院の患者さんの協力により開発中(第90回日本内分泌学会で発表)―  
    血液中のコーチゾールの測定は副腎不全の診断だけでなく、服用中のコートリルRの量が適切かどうかの判断にとっても必須の検査となります。しかし今はクリニックの外来での採血や入院での採血しかできませんので、ハイドロコーチゾン服用中の日常生活の中でコーチゾールがどのような値なのか、また副腎不全を疑う症状が起きた時の値がどうなのかを知ることは不可能と言えます。私たち医師も患者さんの日常生活の中でのコーチゾールの値が分かればもっと適切な治療ができると考えています。そこで私は糖尿病の患者さんが自己採血で血糖を測る時に使うランセットという専用の採血針を使って、患者さんに指先を穿刺して頂き、一滴の血液を使ってコーチゾールを測定する方法を確立しました。方法は患者さんがランセットで指先を穿刺して出た血液を専用の細いガラス管(ヘマトクリット管)に吸い取りそれに封をして試験管に入れ、自宅の冷蔵庫に保存しておいて翌日クリニックに届けてもらいます。それを私と共同研究者の前原佳代子先生(畿央大学教授)が3μlの少量でコーチゾールを測定する方法を開発し実際に患者さんのコートリルRの服用量の調整に使っています。この方法がさらに簡易化できるように研究を続けています。きっと数年以内には岡本式と称して皆様に手軽に利用して頂けるまで研究が進んでいると思いますのでご期待ください。 
    6. 甲状腺ホルモンの補充について 
    (1)血液中の甲状腺ホルモンの値をどのように治療に生かすか 
    そのためにまずは測定された甲状腺ホルモンの値が基準値の正常範囲に入っていることが第一条件ですが、さらにその値が患者さんにとって適当な値かどうかを改めて検討する必要があります。 
    (2)成長期における甲状腺ホルモンの補充の実際 
    私は成長期の患者さんには血液中のFT3の値が 4.0pg/ml を少し超える程度を維持できるチラーヂンSの量を補充するように心掛けています。FT3 (体内でT4からつくられる)が 2.5pg/ml で正常として治療を受けていた患者さんに、チラーヂンSを増量してFT3を4.1pg/mlにセットしますと、粘液水腫様の顔貌が改善してすっきりした感じになった患者さんがあり、同じ様な患者さんを何人も経験しています。甲状腺ホルモンの補充量は幸い血中濃度がそのまま参考にできますので年齢相当かどうかと、その患者さんに適した量かどうかを患者さんの自覚症状も含めて決めることができます。 
    7. 成長ホルモン治療をどうするか 
    (1)脳腫瘍術後の成長ホルモン治療が有する問題について 
    一方身長は-2.5SDより低くなく、GH分泌負荷試験が無反応で、インスリン様成長因子(IGF-Ⅰ)が著しく低い患者さんも多く、その様な子どもさんは、成人に見られる成人成長ホルモン分泌不全症に特有のメタボリック・シンドローム様症状を呈し、元気がない子が多いようです。私は成人成長ホルモン分泌不全症に対してGH治療を行い、元気に生活できるように成った患者さんを多く診ております。そのため、成人でもそれ程の効果があるなら当然成長期の子どもさんのGH分泌不全にも代謝の改善を目的とした治療が必要であると考えて多くの子どもさんの治療も行っています。 
    (2)小児GH欠損に対する代謝の改善を目的としたGHの量とは 
    (3) 成人の成長ホルモン分泌不全に対する治療 
    成長ホルモンは成長期に身長を伸ばすためだけに働くホルモンではありません。骨に対する作用だけでなく糖代謝や脂質代謝、さらには脳の働きにも影響を及ぼします。そのため現在成人でも重症のGH分泌不全に対してはGH治療を行います。いままで寝たきりのお年よりの方がGH治療を開始して見ちがえるように元気になられて自立された方も経験しています。GHの量は 0.2mg ~0.4 mg/dayで自己注射が認められています。
    8. 性腺治療(ゴナドトロピン療法または性ホルモン補充療法)をどうするか 
    (1)いつから性腺治療を始めるか 
    女性の場合には  
     男性の場合は女性の1歳遅れ位で上記のメニューをスタートします。  
    以上はあくまで骨年齢での開始年齢で、もしある男性で暦年齢が13歳で骨年齢が11歳となりますとあと2年程待って15歳からのスタートになります。
     性ホルモンは骨成熟を促し、身長の伸びを促進しながらも骨端線を閉鎖させる働きがあります。そのため性腺治療が遅れますと、体重の増加にも関わらず骨端線が閉じず負荷がかかって「大腿骨頭滑り症」を引き起こすことがあります。性腺治療が遅くなった場合には両側の大腿骨頭のX線撮影を行って整形外科医の専門医の意見を聞く事も大切です。 
    (2)どのような治療を行うか 
    まず男性に対するゴナドトロピン療法はLH作用を有するhCG(胎盤性ゴナドトロピン)とFSH作用のあるhMGやrhFSH(遺伝子組換によるヒトFHS製剤)などを注射します。その量は前述の導入期から増量期そして維持療法期と順に増量していき、その量は血中のテストステロンの値で調節します。理想的な治療を続ける事によって精子ができ子どもを造ることも十分可能です。私は今までに何人かの男性にこの治療を行って挙児を得ています。 ゴナドトロピン療法の実際については個人差がありますので以上が大体の考え方であると言えます。  
    一方女性の場合、ゴナドトロピン療法を行うか、あるいは女性ホルモンだけのカウフマン療法だけで行うかは意見の分かれる処で、多くの小児内分泌専門医の先生方はカウフマン療法といってエストロゲン製剤とプロゲステロン製剤の組み合わせで治療を行われています。しかし問題はこのカウフマン療法は、卵巣を育てる治療ではなく、単に子宮内膜を月経周期と同じ反応を起こさせる治療であると言えます。カウフマン療法だけでも卵巣はある程度発育しますが、排卵する条件を造る治療とは言えません。そのため私は成長障害研究の第1人者であられた亡き岡田義昭先生とその様な女性の患者さんにゴナドトロピン療法を多数検討して、卵巣を発育維持できる程度のゴナドトロピンとカウフマン療法のコンビネーション治療を考案し、現在私はその方法で治療を行っております(Endocrinol Japon 39(1) 31-43, 1992 に掲載)。その時に使うゴナドトロピンの量は少量で、決して過剰による卵巣過剰刺激症候群(OHSS)を引き起こす様な量ではありません。そして実際結婚されて妊娠を希望されるようになれば婦人科の専門医にゴナドトロピン療法で排卵を誘発してもらって妊娠できるようにと考えています。まだその様な治療を続けて妊娠された女性を経験していませんが、そろそろこの治療を受けて結婚される女性が出てくるので楽しみにしています。 
    (3)いつまで続けるのか 
    9.災害時の心構えとその時のために   
    平成23年3月11日の東日本大震災では多くの方が亡くなられ、同時に35万人以上の被災された方々が今尚不自由な生活を余儀なくされています。当時ホルモン補充療法を続けておられる方が被災されていることを知って私どものチーム(災害時ホルモン剤補給支援チーム:岡本)は早稲田大学YMCAボランティアチーム(加納貞彦教授と隊員)の協力を得て被災地にホルモン剤(デスモプレシン、コートリル及びチラーヂンS)を奈良から東京経由で東北の被災地に届けることができました。その経緯は新聞やインターネットのニュースで報道され、被災地へのホルモン剤の補給の重要性が認識されました(写真参照)。今後どの地域に大災害が起こるか分かりませんので、患者さんと家族がいつ災害に遭遇しても良いように普段からホルモン剤のプールをお願いします。ここでは一項を設けてその具体的な方法を述べます。
    (1)どの程度のホルモン剤をプールしておくか。   
    大災害で今回のような数県に渡る広範な被害が発生した場合、救助の手が差し伸べられるとしても発生初期にはホルモン剤の補給は殆ど期待できないといっても良いでしょう。救護班が避難所に到着してホルモン剤の必要性をキャッチして患者さんに薬剤を手渡すことができるまでには少なくとも1週間はかかると思われます。その最初の1週間はホルモン補充療法を続けている方にとっては生死を分ける1週間で、そのときにデスモプレシンやコートリルが無ければ脱水とショックに陥ることになります。そのためデスモプレシン、コートリル、チラーヂンS、ミニリンメルトR(デスモプレシン点鼻液あるいはスプレー) が生命維持に必須のホルモン剤ですのでそれらを最低2週間分プールしておく必要があります。 
     (2)どこにホルモン剤をキープしておくか。   
    災害時に最も持ち出しやすい玄関近くの簡易保冷庫に保存しておくのが良い でしょう。キッチンの冷蔵庫では災害時には取りに行けなかったり、他の食品と一緒に散乱してしまう可能性があります。私はホルモン剤専用の小さな保冷庫(キャンプ用の小さなものが市販されている)を玄関の片隅に設置しておくことをお勧めします。特にデスモプレシンなら冷凍禁で10℃以下に保存できる保冷庫でそこにミニリンメルト、コートリルやチラーヂンSを保存しておき、1リットルのミネラルウオーター2本と一緒にキープしておくことです。玄関に置いてある簡易保冷庫に普段使用するホルモン剤を保管しながら順送りに使っていくのが薬剤の品質を保つ上でも良い方法といえます。
     (3)災害時にはホルモン剤をどの様に持ち出すか   
     自宅か自宅近くに居た場合には何よりも先に簡易保冷庫のホルモン剤とミネラルウオーターを持ち出して下さい。普段からすぐ持ち出せるように透明の手提げ袋に入れておくことが大事です。「災害時は何が無くてもホルモン剤」 です。デスモプレシン点鼻液やスプレーは10℃以下に保冷が原則ですが、できたら保冷剤を入れて持ち出すのが良いでしょう。そこまでしなくてもデスモプレシンは室温で1、2週間は安定ですので熱にさらされないよう注意してカバンの中に入れて逃げる事です。災害時の持ち出し用としてはデスモプレシンよりもミニリンメルトの方が有用です。そしてミニリンメルトだけでなくコートリルやチラーヂンSは錠剤ですからナイロンの袋に入れて水をかぶっても濡れない様な配慮が必要 です。場合によっては水の中を歩いて逃げなければならないこともあり、錠剤が水に濡れて溶けてしまうこともありうることです。できれば職場にもワンセットキープしておいてください。被災して帰宅難民となってホルモン剤が手に入らなかった事も実際有った話です。
    (4)災害時にホルモン剤を持ち出せなかったら   
    自分がホルモン剤を服用している患者であることと、ホルモン剤が無ければ生命に関わる事を周囲に意思表示する必要があります。大きなカードに「私はデスモプレシン、コートリル、チラーヂンSが今すぐでも必要です。救護班に連絡して下さい!」と書いて支援を待ってください。
    われわれの取り組み「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」に期待してください。   
    東日本大震災の時に私共の「緊急時ホルモン剤補給支援チーム:岡本」と早稲田大学YMCAボランティアチーム(加納貞彦教授と隊員)の協力で被災地にホルモン剤を届けた経験を生かして、このたび新たに「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」を結成しました。このチームは世界の被災地にもホルモン剤を届けることができるボランティアチームで患者会の方々からも期待されています。災害時の患者さんからのアクセスは私の医療相談窓口にお願いします。     
    E-Mail: iryousoudan-ok@hotmail.co.jp  
    
     
    あとがき 
    謝辞 
     
    
      
         
      
        脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の治療 
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    脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の治療 
           
 
  
  
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  これであなたはタバコが止められる!
  岡本式禁煙法の紹介 
   
  1)私のタバコとの付き合いと禁煙へのトライ 
  2)岡本式禁煙法を工夫するまで 
  3)岡本式禁煙法カード表の使い方 (1)岡本式カード表のダウンロードから 図1 からダウンロードしてください。その時できるだけ高価で見栄えのする光沢紙か「スーパーファイン」でプリントアウトしてください。そしてそのカードを美しく塗っていくために赤色のフエルトペンを1本用意してください。そこで用具の準備は終わりですが、すぐに取りかからないでください。いったんそれを風呂敷に包んで禁煙開始の宣誓式用を行ってから始めます。
  図1      
    (2)禁煙開始の宣誓式を行います 
    (3)禁煙の開始 
    (4)4日間の禁煙が成功したら 
    (5)せっかく成功したのにまた吸い始めた方に 
  
  サンタモニカのビーチコースでの力走?
 
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  若さを保つためのWe  Are Looking 体操
   元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
  はじめに われわれにとっての健康維持に運動が大事であることは言うまでもありません。そのためにラジオ体操やストレッチ体操、ヨガなどあらゆる体操が工夫されています。身体を動かして筋肉を収縮させその刺激で身体だけでなく脳へ刺激を送って心身の活動性を高め、爽快感(sense of well being )を楽しんでいます。しかし今までの体操の多くは手足と胸部、腹部を中心とした運動で、医学の観点からは脊髄から直接軸索を出して支配している「脊髄神経」の領域の筋肉トレーニングに限られています。われわれの身体を支配する神経には脊髄神経のさらに脳から直接軸索を出して顔の運動や嚥下運動、さらに呼吸運動を支配する神経がありそれを「脳神経」と呼んでいます。脳神経は全部で12対あり、それぞれ支配する領域に応じて名前がついています。この脳神経の領域の筋は殆どが首から上の機能で、生命にかかわる機能と言っても言い過ぎではありません。一つを挙げますと、第ⅩⅡ脳神経である 舌下神経は舌の運動を司っています。この機能が脳梗塞などで低下しますと誤嚥を起こして窒息することもあります。私は長らく糖尿病の患者さんを診てきて、ときどきこの脳神経領域の障害で苦しまれる患者さんに出会うことがあります。そこでこの脳神経領域のトレーニング法の必要性を感じ、「We Are Looking 体操」を考案しました。そして今までに市民公開講座(県民フォーラムや桜井市公民館での講演)で紹介し、好評を頂きましたのでその概要を紹介することにしました。Ⅰ)脳神経領域の神経とその働きとは (1)第Ⅰ脳神経(嗅神経): (2)第Ⅱ脳神経(視神経): (3)第Ⅲ脳神経(動眼神経): (4)第Ⅳ脳神経(滑車神経): (5)第Ⅴ脳神経(三叉神経): (6)第Ⅵ脳神経(外転神経): (7)第Ⅶ脳神経(顔面神経): (8)第Ⅷ脳神経(内耳神経): (9)第Ⅸ脳神経(舌咽神経): (10)第Ⅹ脳神経(迷走神経): (11)第ⅩⅠ脳神経(副神経) (12)第ⅩⅡ脳神経(舌下神経) Ⅱ)We Are Looking 体操とは 
   
  We Are Looking 体操  (PDF 972KB)
  
  モルダウ河の船上でスメタナのモルダウ(我が祖国より)を演奏
 
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  第4回あしたのなら表彰式での講演記録:平成25年11月10日於:橿原文化会館 日々元気で若々しく生きるための脳の使い方 
   元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
  はじめに 奈良県民に元気を与えた人を表彰する「あしたのなら表彰」の第4回表彰式で講演を依頼され「日々元気で若々しく生きるための脳の使い方」と題して私の専門の内分泌領域から「日頃の悩みや煩いを上手に処理して元気に生きる方法」について紹介した。その内容に多くの参加者の方から賛同を得たため、ここにその講演の要約を当日使用したスライド写真と共に掲載することにした。
  1.脳の機能から見たストレス処理メカニズム 
  私がまだ若かりし頃、色々な悩みで煩悶していた時の詩を紹介する。
  
  悩みのない人などおそらくは何処にもおられないため、この詩にきっと共感して頂けるところがあると思う。悩みさえなければどれほど楽しく毎日を生きていけるのにと思うのは私だけではないであろう。 翻って考えるに、われわれに脳という得体の知れないものがあがるから悩むのであって、これほどまでにわれわれを悩ませる脳とは一体何者なのか正体を知りたくもなる。考えてみれば 「人類の生存と幸せの為に進化してきたわれわれの脳は、いったいわれわれを本当に幸せにしてくれるのか。このあまりにも進化しすぎた脳の勝手な振る舞いにわれわれは翻弄されているのではないか。」 と疑問を抱いてしまう。 近年医学の進歩で脳の機能や各部位の働きについて詳細に研究されてきており、その知識を使わない訳はないであろう。 孫子の兵法に「敵を知り、己を知れば 百戦して危うからず」とある様に、脳を知り その手の内と働きを知れば「悩を解き放つ術」があるのではないかと考えるのももっともなことである。悩によるストレスが有ったとしてもそれを上手に処理して身体に悪い影響を及ぼさないで軟着陸させる良い術はないのであろうか。
  
  上に脳の解剖を示しているが、大脳の中心部下方に視床下部と下垂体という我々の精神的、身体的ストレスをホルモンによって処理するセンターがある。私自身この視床下部や下垂体に関わる病気を専門とする内科医で、その専門を「内分泌学」と称している。特に視床下部は外的または内的ストレスを処理して下垂体に指令を送る参謀本部とも言えるところで、映画「ゴッドファーザー」の最初の場面でゴッドファーザーが娘の結婚披露宴の時に色々な人から頼まれ事をするが、その依頼を誰に任せるかをきめるのがゴッドファーザーで、まさに視床下部の機能はストレスを処理する「ゴッドファーザー」なのである。
  
   
  
  2.偉大な先人の教訓からストレス処理の原理まで 
  ストレスをどう処理するかというなかで最も参考になるのは、偉大な先人たち特に歴史上の著名人、あるいは戦国武将さらには偉大な仕事を成し遂げた人々の知恵や名言、遺訓であろう。彼らはわれわれが想像を絶する困難に遭遇しながらも、その大きな危機やストレスを上手に乗り越えてきた偉大な人々であり、彼らの知恵や名言はまさにストレスの上手な乗り切り方を教えていると言える。その中にはわれわれを苦悩から救ってくれる言葉がきら星のごとくあり、それらはストレスを上手く処理して視床下部にそのストレスを神経ネットワークを介して軟着陸させる一つの「好ましい思考回路例」 とみて良い。これらの参考にすべき思考回路を詳しく調査してストレスに対して偉人達はどのように考えたか、これらの名言や遺訓の重要なキーワードを統計処理してなにが最も頻度が高いか検討することにした。この様な統計処理は医学論文作成などでよく使われる方法でその結論は客観性があり説得力がある。統計処理に使ったそれらの名言、遺訓の一部を下に紹介している。
  
  これらは偉人達が自分に降りかかる大きなストレスを上手に処理するための心の有り方を「この様にありたいと願った」ストレス処理法であると言える。さてここで行った統計処理とは、それぞれの名言に含まれるキーワードの重要度を5段階評価してその頻度を集計している。特に夏目漱石の「則天去私」や、宮沢賢治の「人の喜びを喜びとする」という言葉は「天に則す」や「己を去る」「ひとの為に生きる」の5段階評価の5に分類している。結局人の生き方に関する何百という名言や遺訓を取捨選択し、重み付をして統計処理すると、下に示す3項目に行き着くことになる。 即ち偉大な先人達がストレスや悩みを上手に処理して「日々元気で自信に満ちて生き抜いた」脳の使い方は結局この3原則に行き着くことになる。その3原則をさらに短く要約すると下に示すように「天に則し、己を去り、人の為に生きる」 という事となる。
  
  
  その経験からも  「人は人との関わりの中でしか生きていけない」わけで、 この3原則に統計処理した結果の第4位の「人を愛し」 という言葉でくくると「人を愛し、人の為に生きれば、己を去り、天に則した生き方ができる」 という結論になる。結局偉大な故人の遺訓や名言を統計処理してそのエッセンスを抽出して言葉でまとめると下に示す様にまとめることができる。 これはまさに多くの偉人達が残してくれた「人類の心の遺産」 であるとも言える。私もこれからの人生をこの考えを座右の銘として生きていきたいと念じている。
  
  3.脳の若さを保つには 
  今回の講演のもう一つのテーマである「脳の若さを保つには」どうすればよいかについて私の経験も含めて紹介する。まず脳に対する基本的なイメージを頭に叩き込んでおいて頂きたい。
  1.脳は何歳になっても新たな刺激によって新たなネットワークを作ることができる。 
  そこから導きだされる結論は、脳のできるだけ多くの領野を刺激すること 即ち「多くの種類の異なる学習による刺激」が必要であるということである。その考えの参考となるイメージとして「リービッヒの最少律」 というのがある。それは植物の成長速度や収量は、必要とされる栄養素のうち、与えられた量のもっとも少ないものに影響されるとする説で、それを分かりやすく現わしているのが下のドべネックの桶 である。
  
  桶を形作っている木枠で最も低いレベルにしか水が貯まらないことを示しており、脳に当てはめて見ると脳の各領野の機能の中で最も低いレベルがその人の脳のレベルであるという見かたである。脳に対する栄養素である学習に関しても同じであり、できるだけ多くの脳の領野を万遍なく刺激しなければならないたとえになるとして紹介した。脳のいろんな領域に刺激を送るためにはできるだけ多種類の刺激を送ることが必要で、下に示す様な学習から運動面、芸術面とできるだけ広範囲の脳への刺激を与えることが大切である。そのため私は10年以上前から医師として患者さんを診察したり医学書を読む以外に多くの趣味やスポーツにトライしている。
  
  これでも足りないと思って毎年新しい取り組みを考えている。参考になるかとその一部を下に写真入りで紹介している。
  
  そして最後にどんなことにも興味をもって取り組み、人の為に役立ちたいとの私の思いを文字にした「そんな私でありたい」 という詩を紹介させていただいてこの講演のまとめとしたい。
  
  あとがき 
  この講演会のあと荒井奈良県知事を囲んで、もう一人の講演者である山折哲雄先生と私、そして審査委員長の元奈良県立医科大学学長の吉田修先生で懇親会が持たれた。吉田先生からは私の話の「生きるための3原則」の源となった偉人達の名言の選択に私の私情が入っているのではと指摘された。それは私へのお褒めの言葉として頂戴すべき先生の温かいお言葉でもある。確かに遺訓や名言の選択にこれが使えるかどうかに「これは良い」との判断が入った事は否めない。しかし取捨選択した名言、遺訓の母集団を通読していた私の感覚からも既にこの3原則はどのような統計処理をしても抽出されるであろうとの予想があった。そのため私情が入ったとしても結論は同じであったと考えている。懇親会の場で吉田元学長先生に反論できなかった点をここに書き加えて稿を終わりたい。 
  2013/11/12
  
  医師会の余興でマイケルジャクソンを演じる岡本医師
 
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  癌と共に描き続けた大和路
   元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授 
   平成19年9月21日の朝、私が専門外来の診察を始めようとする10分程前、消化器外科病棟に入院中の林  野 茂氏の奥様が涙を隠すことなく私に寄りかかりながら「昨日1時50分に主人が亡くなりました。先生に有難うございましたと伝えてくれ、と言って亡くな  りました」と。その後の声は途切れて言葉にならなかった。
  ? 診察を始める時間になっても私の脳裏にこの5年間膵臓癌と戦ってこられた林野氏の姿が脳裏を去らなかっ  た。氏にとってこの5年間は、癌の告知を受け手術を受けるも完治できず抗癌剤による治療を続けながらの毎日であった。時々襲ってくる苦痛に耐えながらも、  少しも不安や愚痴を口にされることは無かった。いつも付き添ってこられる奥様に「重子、しんどいけど先生の話で安心した・・・」と診察を終わるたびに私に対して感謝の気持ちを顔一杯に表しながら帰って行かれたのが印象的であった。
   主治医である私は、氏が中学校の社会科の先生であること。また自作の吉野の名跡を散策する地図を頂いて、  几帳面な方だなという印象を抱いていた。服装などにはあまり気をつかわれない方で、そこに書かれた案内があまりにも繊細で女性的な文字であったために、御本人の印象とは何か相いれないものを感じていた。主治医と患者さんという関係から見えてくる人の印象とはやはりこの程度のものなのであろう。    ?
   亡くなられて3ケ月ほどして奥様とお子様の名前で一通の葉書を受け取った。「しげる展 ~ともに過ごした日々~」と書かれた個展の招待状であった。氏が絵を描いておられたことを知ったのはそのときが始めてであった。私は秘書のSさんを連れて一緒にその展覧会  をおとずれた。その展示は氏の地元の喫茶店でひっそり行なわれていた。奥様と娘さんが迎えに出て来てくださり、喫茶店に展示してある油彩の風景画や静物を一点一点、氏が描いておられた頃の病状と併せて説明していただいた。そのほとんどは大和路と吉野の風景であり、癌との戦いの中で余命を意識しながら描かれ  た作品として非常に興味をもった。温かい色使いの何かホッとする風景画であるとい印象を受けた 奥様は、本人が決して人に見せるために描いていたのではないこと。そして個展などはさらさら考えてもいなかったために、この遺作展も本人の遺志ではなく、作品をみた同僚の先生の勧めで開かれたことを伺った。この遺作展を訪れた同僚の先生方も「林野先生が絵を画いておられたとは知らなかった」、「普段の林野先生からは想像がつかない」と言われます、とも奥様から伺った。そして壁に展示してある絵を一通り見終わってテーブルでコーヒーをご馳走になっているとき、奥様がカウンターの上に並べてあった数冊のスケッチブックを持ってこられた。なんとなく取った一冊目  のスケッチブックを見ながら私の心に衝撃が走った。わたしの心は、その調和のとれた構図と柔らかい線と色合いに込められた静かな世界に引き込まれて行っ  た。私もかつて美術をめざして芸大を受験した経験があり、その技能の巧拙はある程度評価できると思っている。その数冊のスケッチを私は食い入るように見入って、ある著名な作家の個展を見終わった時の様な感動と脱力感を覚えた。そして帰り際まで奥様から思い出話を伺ったが、それはやはり「生徒思いの一人の  まじめな中学校教諭」であった。同僚の先生から、学校でみる林野先生からは想像できないと言われたのも頷けるものであった  
   帰り車の中で私は、氏が明日香や吉野の野山を散策しながらスケッチしておられる姿を何度も想像してみた。  その姿は想像できても、私にはどうしても理解できない点があった。それは日に日に迫りくる死の恐怖をどのように心に受け止め、このような絵が画ける安らかな心の時間を過ごすことができたのかということ。そして癌の告知を受けるまではほとんど絵筆を執ることは無かった氏が、人に見てもらおうとして描いたので  はないそのその製作の動悸と情熱の源はどこからなのか私には想像できなかった。そして後日、私が気に入った何冊かをお借りして自室で静かに見入った。いく  ら見入っても当時の氏の心境はスケッチからは計り知れないものであった  
   しかし医師として、これは癌に侵され死を迎えることを知りながら一日一日を精一杯暮らしている患者さんにとって、一つの励ましとなり、限りある人生を生きる一つの知恵を与えてくれるものではないかと考え、奥様の了解を得て紹介することにした。奥様は「本当に人に見せられる絵なんですか」と私の申し出に半信半疑であっが、たとえその作品が癌を背負って描かれた作者の作品であることを抜きにしても十分見応えのあ  る絵であると評価して紹介することにした。
  ?
  林野茂 遺作展 
  http://hayashinoshigeru.com/  
   
 
  「学ぶ心は尽きることが無い」
   元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授   
  はじめに シニアの方々の学ぶ心に応えるために荒井奈良県知事の意向で平成26年4月に「奈良県立大学シニアカレッジ」が創設され、今年度の第2回開講式には700名近い受講生を迎えることになった。私はこのシニアカレッジの創設に関わったこともあり、毎回開校式の基調講演と特別講義を依頼され担当している。知事とのふとした話の中から飛び出したシニアカレッジ構想が今や分校を必要とする大きな規模となり、さらなる発展に私としても責任を感じている。われわれ医師も医療面でのサポートだけでなく、シニアの方々の学ぶ意欲の高さを理解して協力していく必要があると考え報告させていただくことにした。1)知事との対談から飛び出したシニアカレッジ構想  (写真1) 。この私の講演というふとしたきっかけから知事の英断で花開き大きく発展しているシニアカレッジに私自身驚いているところである。 
  
  2)興味を持って頂いた講演「若さを保つための脳の使い方」とは (図1) 、できるだけ多くのことにトライして等しくレベルアップすることが必要であると説いた。
  そしてそのためには脳のできるだけ多くの領野を刺激するめに勉強だけでなく、運動から芸術などあらゆる分野に興味を抱いて好奇心を持って生活することが大切であると、私自身が日頃若さを維持するために続けている方法を紹介した(図2) 。そして最後に103歳で現役の医師である日野原重明先生の生き方を紹介し、「何歳からでも、未知の分野や新しい事に興味と好奇心と、そして冒険心をもってチャレンジするなら、脳と心は成長し続け歳をとらない」 という日野原語録を紹介して締めくくった。
  
   
  3)これからのシニアの方々の生き方を考える 
  最後にちょっといい話であるが、私の患者さんで高校でいじめにあって不登校となり長らく悶々と生活していた31歳の女性にこのシニアカレッジに紹介した。1年後、私のところに「先生に紹介して頂いたシニアカレッジで皆様に親切にして頂き勉強がたのしくなりました。四月からは定時制の高校に入り直して、4年間バイトをしながら大学の学費を貯めて大学入試に備えるつもりです。有難うございました。」と別人と思われるように活き活きとして自信に満ちて挨拶に来られた。こんな話もあるのかとシニアカレッジの別の意味を問い直しているところである。 
  おわりに   
 
		
  低炭水化物食(Low carbohydrate diet)をどう扱うか 
  日本糖尿病学会評議員、専門医、指導医
  はじめに 
  1.低炭水化物食とは 
  2.低炭水化物食は有用かどうか 
   以上より低炭水化物食は一時的な体重コントロールと血糖コントロールには有用であったが、長期の効果は不十分でありさらに長期の研究が必要である。
  3.低炭水化物食の問題点と有害性について 
   以上から低炭水化物食は長期継続で注意が必要であり、さらなる研究が必要である。
  4.低炭水化物食による副作用の報告 
  低炭水化物食による副作用のリスト
  1)低血糖の頻度の増加
  5.低炭水化物食をどう扱うか 
  おわりに 
  簡単に言えば「角をためて牛を殺す」の愚に陥らないバランスのとれた考えで治療を続けていただきたいということである。
   
 
		
  日野原重明先生とオックスフォードでの 
   元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
  はじめに   
  この5月10日から5日間イギリスのオックスフォードにて第44回オスラー協会総会が開催され、日本からは学校法人聖路加国際大学名誉理事長である日野原重明先生と天理医療大学学長の吉田修先生、そして私共を含め13名が出席した。現在102歳で尚現役で仕事をされている日野原先生の総会での御活躍を目の前にし、医師としての大きな鏡でもある先生の姿を紹介することに意義があると考え、行程に合わせてエピソードを添えて紹介させて頂く事にした。 
  1.オスラー協会と日野原先生  
  アメリカオスラー協会は、ジョンズ・ホプキンス大学とオックスフォード大学の教授であったウイリアム・オスラー博士の偉業を記念して、弟子達により1970年に創設された会である。 日本では1983年に日野原先生が日本オスラー協会を立ち上げられ初代会長として活躍してこられた。現在はNPO法人となり元奈良県立医科大学学長の吉田修先生が理事を務められている。アメリカオスラー協会は年1回の年次総会と4年に一度イギリスのクラブとの共催で総会が開かれ今回は日本オスラー協会も参加した3カ国合同の第44回総会である。この学会は他の医学分野の学会とは異なり、オスラーの偉業にちなんで医学史やオスラーの生誕からのエピソードを紹介しながら現代医学の問題点を探るといった現代医学を高い視点から俯瞰する他では見られない学会である。その参加者の殆どが教授や学長といったそうそうたるメンバーで、演者も殆どが著名な教授や学長であった。私は20年前に日野原先生の「平静の心  オスラー博士講演集」と「医の道を求めて  ウイリアム・オスラー博士の生涯に学ぶ」などを読んでオスラーに傾倒していた。オスラーの業績は学問的業績だけでなく医学教育や看護教育、社会医学など幅広く、医学概論から医師が患者とどう向き合うべきか、また1人の医師としてどのように心の平静を保ちながら医療に熱中すれば良いかといった具体的な医師の処世訓まで残しており、その意味から日野原先生のオスラーに関するこれらの著書はわれわれの手が届かない巨星であるオスラーの人柄を直に触れることができる貴重な書であると言える。そして私は20年前に日野原先生が京都に講演に来られた時に先生の著書である「平静の心」のページにサインして頂いたことがあり、私とオスラーと日野原先生との出会いは20年前にさかのぼることができるのである。そして今回光栄な事に吉田先生から御誘いを受けたが、私はむしろオスラー協会の学会参加よりもこの数日間を日野原先生と過ごし先生からいろいろ教わることができる事を期待して参加させて頂いた。そのため出発までに先生が出版された単行本を10冊程読んで参加した。 
  2.羽田国際空港での日野原先生との再会   
  出発前に羽田空港の一室で結団式があるとの事でそれに合わせて 羽田空港ホテルで一泊した。日本オスラー協会のメンバーは日航のVIP扱いで貴賓室に案内された。私と家内が最初に部屋に案内され日野原先生の到着を緊張しながら待っていた。日野原先生は今でも聖路加病院の名誉院長であり超有名人でもあることから、きっと聖路加病院の医師が1人か2人は同伴されて来るものと思っていた。しかしほどなく日航の秘書の案内で部屋に入ってこられたのは日野原先生と御子息の奥様だけであった。そして私の左奥の椅子に深く腰かけられて、「皆さま御苦労さまですね。私は昨日名古屋で講演してきてね」と話された。本に紹介されている写真よりも血色がよく、1時間以上の講演を月に数回こなされているだけあって声に張りが有りお元気であった。足元が少し不安な所を除けば80歳前後の品のいいお洒落なお年寄りであった。そしてしばらくして吉田先生御夫妻が到着されて日野原先生の横にすわられ今後の大学の構想などを話しておられた。それを横で拝聴して驚いたのは「うちの聖路加国際病院が大学に成ってね、東京オリンピックの選手や関係者のための医療センターになるので色々会議があってね。」と話されていた。東京オリンピックが6年先となると先生は108歳に成られるのであるが、自身の年齢などは全く意に介さず6年先の構想を練っておられるのであった。 吉田先生から「これは奈良医大の岡本先生で、バングラデシュに寄附で病院を建設し、マンゴーの苗を植えて医療費を援助している先生です。岡本君何か紹介できる資料をもっているか?」と聞かれ私はバッグに入れて来た「バングラデシュへの道」という冊子を先生にお渡しした。私は先生がきっと小冊子をぱらぱらっとめくって後で読ませてもらいますよとカバンにしまわれると思っていた。しかし先生は表紙から食い入る様に見ながら15分程順にページをくりながら内容に眼を通しておられた。私が少し席をはずしてもどって来ると吉田先生から「先生が是非協力させて頂くと言っておられたよ」と聞かせて頂いた。私の支援事業に何か大きな力を頂いた感じで出発の最初から大きな感動であった。そして出発の30分前にわれわれの特別室にスチュワーデスと同じJALの制服を着た美人の秘書が入ってきて「先生お久しぶりでございます。いつもお変わりなくお元気で私も嬉しいですわ!」と両手で先生の手を握ってなかなか先生の手を離さなかった。われわれなんかには見向きもしない若い女性秘書にとって日野原先生は特別の存在で、手を握らせて頂くだけで何か幸運をもらう様な感じなのかも知れないと思った。彼女が出て行ってから吉田先生が冗談まじりに「先生若い女性にもてるにはどうしたらいいんですか? 羨ましいですね。」と言われると、日野原先生は「お洒落をすることですよ」とさらりと言われた。確かに先生はお洒落でワイシャツからネクタイそして靴まで完璧で清潔感を感じさせる素敵なジェントルマンであった。しばらくして別ルートで一般の人より先にビジネスクラスの機内に案内された。 
  3.オスラー記念館への招待を受けて   
  ヒースローに降り立ったのは9日夜で、翌10日は日野原先生と一同がロンドン市内を観光し夜はロイヤルアルバートホールでチャイコフスキーのピアノコンチェルト1番などを聴いた。宮殿の様な豪華な吹抜けのホールに響き渡る力強いピアノの音に先生も感激して夢中で聴いておられた。11日は学会が開催されるオックスフォードに移動した。その夜オックスフォード大学のライアン名誉教授が日本オスラー協会のメンバーをオスラー記念館に招待してディナーパーティーで歓迎して下さった。ライアン教授は玄関の階段の上でわれわれを待っておられ、少し足元が不安に見えた日野原先生を少しサポートしながら招き入れられた。本部内にはオスラー博士の歴史が閲覧できる資料室とオスラーが寄贈した蔵書が図書室に整然と保管されており、膨大な書籍からオスラーの偉大さを感じないわけにはいかなかった。そしてライアン教授は皆を資料室に招き入れて、オスラーのレリーフの真横に日野原先生の写真が飾られているのを指さされ紹介された。日野原先生は笑みを浮かべ満足そうに親指を立ててガッツポーズをされた。 
  
  そしてサインを頂いたページを指さして「先生これが20年前に先生が講演された時に頂いたサインです、この横に今日の日付で先生102歳のサインを頂けますか」と本を差し出した。すると20年前の講演を思い出された様で、「そうそう覚えていますよ」言いながらサインを頂く事ができた。まさかこの本と一緒に先生に再会するとは思わなかっただけに私の貴重な宝物となった。そしてライアン教授と日野原先生、吉田先生そして私達との楽しいオックスフォードでの一夜であった。 
  
   
  4.オスラー協会総会での日野原先生の挨拶   
  
  最後に”Thank you very much” で締めくくられると会場は大きな拍手に包まれ、外国からの何人かの聴衆は拍手をしながら立ちあがりまさにstanding ovationであった。そして私の横にいた外国のドクターは自分の頭を指さして “ very clear!  very clear!  amazing! “ と叫んでいた。 
  
  
  5.日野原先生の生き方から学んだ事   
  日野原先生は今尚聖路加病院の名誉院長で、現役で色々な会の理事や会長を務めておられ月に何回もの講演をこなしておられ、それだけでも誰もが「100歳を超えてすごいな」という事になる。しかし国際学会の場で堂々と流暢な英語で挨拶されている姿をみて「世界のHINOHARA 102歳、今尚健在」であった。この数日先生と間近に接し、隣り合わせの席で先生の若かりし頃の話しや発展途上国の医療についての御意見も聞かせて頂いた。このオックスフォードでの先生から受けた印象の中で私にとって最も大きなインパクトは「先生は人生の幕引きというイメージを持っておられない」ということであった。われわれは普通70歳から80歳で人生を終える事をイメージして人生設計をしているが、 先生はMy Way の歌詞にある” face to final curtain ” が無いのである。私には日野原先生の年まで未だ35年あり、先生の歳からみれば私はまだまだ青年なのである。以来私は自分の脳裏から離れなかった final curtain を取り払い、いつそのcurtain が降りてきても良い心構えで遠い先まで夢を抱いて生きて行きたいという気持ちになった。それは何にも替え難い大きな収穫であった。そして先生に同行するまでに読んだ10冊近い先生の著書の中の日野原語録と言える文章の要約を紹介して稿を終わりたい。  
  “何歳からでも、未知の分野や新しい事に興味と好奇心と、そして冒険心をもってチャレンジするなら脳と心は成長しつづけ歳をとらない”
   (この日野原語録は平成26年4月に500名を超える受講者を迎え 盛況のうちにスタートした「奈良県立大学シニアカレッジ」の開講式の基調講演で紹介した。) 
  追記:帰国後秘書の方から聴いた話であるが、先生はオックスフォードから帰国された翌日から2回続けて大きな講演されて元気にされているとの事である。 
   
 
		
  「大学入試センター試験」受験のすすめ
   元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
  今年1月17日、18日の二日に渡って行われた「大学入試センター試験」を奈良教育大学試験場で受験した。私は旧課程での受験となり1日目は朝9時30分から社会(世界史Aと倫理)、国語、そして午後からは英語の筆記とリスニングの試験を受け、翌日は午前に数学Ⅰと午後に数学Ⅱと理科(総合A,総合B)と全教科を受験した。なぜこの様な事にトライすることになったかと言うと、2年前に橿原文化会館で開催された「あしたの奈良表彰」の記念講演で、私が担当した「日々若々しく生きるための脳の使い方」という講演で、脳の老化を防ぐには脳のあらゆる領野を刺激することが大切で、高校の教科書を使って色々な分野に興味をもつことが有用であると紹介したことに始る。その講演に荒井奈良県知事に興味を持って頂き、昨年4月からシニアの方々を対象に高校の教科書を使って講義を行う「奈良県立大学シニアカレッジ」がスタートし500名を超える受講生を迎えることになった。私も特別講義などを受け持ち、シニアの受講生達の学ばんとする心に圧倒され、講義の最後に「私は来年のセンター試験を受けてみますから、みなさんも一緒に受けませんか。」とつい言ってしまった。そして高校の教科書を時々興味本位に目を通すうちに受講生に約束した一事を思い出し「センター試験をうけてやろう」という気になりこの度トライしたのである。
  まず現在の高校の教科書であるが、私は自分が卒業した高校の生徒が使っている全教科の教科書を購入して目を通した。昔、私達が高校で使った教科書とは全く装丁から内容まで一新されており、読んでいると楽しく理解できるように工夫されているのである。荒井知事も教科書を購入され内容を読まれそのすばらしさに感心され一気に「シニアカレッジ」構想を現実にされたのである。私も夜時間のある時に教科書に目を通し、ときにはノートにメモを取りながら「教科書の読書」を続けている。先生方には是非高校の教科書を読書のつもりで読まれることをお勧めしたい。
  
 さて受験当日、17日の土曜日は「学会出張のため休診」と張り紙し診察を休んだが、後ろめたい感じは拭えなかった。当日早くから目がさめ、服装はできるだけ目立たない様に高校生らしいフード付きのオーバーにジーンズを着ることにした。そして家内に弁当を作ってもらって「試験頑張ってね」と激励(?)を受けて会場に向かった。奈良教育大学の門前では予備校の先生達が旗を持って受験生の応援に来ており、私が前を通ると試験監督と思ったのか「御苦労さまです」と深ぶかとお辞儀された。表示の受験番号に従って30分前に指定の教室に入ると既に15名程の受験生がきており、私が入って行くと顔をみて一瞬「何か見てはいけない者を見た様に」目をそらすのであった。しかしその後はお互い何くわぬ顔で、私も机を前にすると次第に高校生の気分で完全に受験生となっていた。試験20分前に3人の試験監督が試験問題と解答用紙の入った大きな袋を持って入ってきて、「監督要領」という冊子を見ながら一通り注意事項を読み上げ、受験票の写真で受験生の顔の確認を始めた。私の番になって監督は何くわぬ顔でそっと私の顔を覗いて、うなずきながら次の受験生の所に移っていった。そして時間がきてベルがなり最初に社会の試験が始まり、私は世界史Aと倫理を受験した。問題を読んでいるときチラと私の方を見る試験監督の目が気になったがあとは必死であった。
 最後にこの誰にも迷惑をかけることなく、診療以外に使う脳をここまで刺激してくれるセンター試験を是非先生方にもトライして頂けたらと投稿させて頂いた。もし同志の先生がおられたら来年一緒に受験して「飲み屋で一杯」の楽しみを御一緒させて頂きたいと思っている。
  本原稿は「メディカルトリビューン誌」に投稿済(H27年1月26日)
 
  終戦記念日に添えて
   「戦地から帰還した従軍看護婦長のはなし」
  元奈良県立医科大学臨床教授
  ある夜、NHK特集で第二次世界大戦の南方戦線から帰還した看護婦長たちの戦地での体験談を、放送記者がインタビューという形で紹介していた。彼女達は皆九十歳を少し過ぎた高齢であるが驚くほどしっかりした語り方で老いを感じさせなかった。またその証言は戦後七十年を経ても、戦争に対する憤りと戦地で亡くなって行った多くの兵士の無残な最期を余すところなく伝えてくれていた。まずは彼女達の高潔な心が九十歳を越える今尚心中に息づいていることに心を打たれた。われわれの年代はまだ終戦前のニューギニアからインドネシアそして沖縄戦へと続く南方戦線がいかに過酷で悲惨な戦いであったかを知っている。私の叔父もニューギニアのメナムで戦死しており、食べ物も無く飢餓状態で泥水を飲みトカゲなどを食べながら迫ってくる敵の銃弾に倒れたと聞いている。その悲惨な戦いの一部始終を戦後十年経って祖父母が息子の戦友から聞いて痛く涙していたのを思い出すことができる。間接的であるが私も戦争の悲劇を身に感じている一人なのである。その番組の中で九十二歳のある看護婦長であった方の証言だが、やっと戦地から帰還できて本土の土を踏むことができ、列車で故郷に帰る時、満員の列車に乗り合わせた周りの人々から「婦長殿御苦労様でした」と感謝の言葉を掛けられた時の証言で、「私は戦地で十分な看護ができなかったのに御苦労様でしたと言われるのが辛かった」と言葉少なく言われた。戦地でどの様なことが有ったのか我々には想像もつかない。しかし当時のことを今でも謙虚に受け止めて、あの時十分な看護ができていたらと己を責めているこの九十を過ぎた女性の姿に、若かりし頃戦地で銃弾に倒れた兵士を抱きかかえ必死に看護している白衣姿と重なり神々しく映った。過ぎ去った過去を都合の良いように歪曲してむしろ自慢話とする人が多い中、この従軍看護婦長たちは今尚謙虚に自分を受け止め、戦争がいかに悲惨であるかを体験から訴えておられた。人間の尊さとはこんなところにあるのかと襟を正させられた一言であった。
  完
  追 記