桜井駅 内科・小児科クリニック

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-男子性腺機能低下症

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ドクターサロン

若さと健康を保つための日々の心がけ -ドクターの私はどうしているかー

卒寿(満九十歳)を迎えた患者さんへのお祝い -法隆寺の奉納瓦のプレゼント-

アムステルダム駅でピアノを弾くアフリカからの難民青年

バングラデシュへの医療援助10年間の歩み

熱中症対策はすでに太平洋戦争中に発見されていた

日野原重明先生に学ぶ 「明日の日が待ちどおしくなる生き方をもとめて」

大晦日のスリランカ寺院での不思議な思い出

「ひとの喜びをする」おばあさんの話

障害者施設でのコンサート「光の森コンサート」を続けてきて

学校健診における成長障害のスクリーニング法「WHAMES法」の実際

「I am a doctor! I am a doctor!」 ― 外国旅行中のバス事故で救助に当った経験からー

災害時におけるホルモン剤補給支援の必要性と支援チームの結成

「チューリップと音楽を楽しむ、ふれあいコンサート」によせて

あなたが測ってもらった「ホルモン測定値」をどう読むか ―患者さんが理解できるために―

脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の治療 ―とくに成長期のホルモン補充療法と災害時の対応について―

これであなたはタバコが止められる! -岡本式禁煙法の紹介 -

若さを保つためのWe Are Looking 体操

日々元気で若々しく生きるための脳の使い方

癌と共に描き続けた大和路 ―林野茂氏の作品から―

「学ぶ心は尽きることが無い」 -奈良県立大学シニアカレッジの創設に関わって-

低炭水化物食(Low carbohydrate diet)をどう扱うか

日野原重明先生とオックスフォードでのオスラー協会総会に出席して

「大学入試センター試験」受験のすすめ ― 平成27年度センター試験を受験した経験から ―

戦地から帰還した従軍看護婦長のはなし

講演

若さと健康を保つための日々の心がけ

-ドクターの私はどうしているかー

元 奈良県立医科大学教授
現 畿央大学客員教授
岡本内科こどもクリニック院長
岡本 新悟

講演要旨

ヒトは歳をとるに連れて自身の健康状態と、老後に不安を抱くようになり、 夢と希望に満ちた若かりし頃に戻りたいと願う。しかし「今の自分を最高に 生きる方法」を人生を豊かに生きた先人達から学び、われわれも若さと健康を 維持しながら豊かで楽しく生きて行きたい。

今回は感銘を受けた先人たちの生き方を紹介しながらドクターである私が どのような点に日々心掛けているかも紹介したい。私の基本的な考え方は "Multiple brain field stimulation theory" という「興味のあることは何でも トライして脳を刺激する」とする極めて明快な仮説で、具体的は方法を紹介 しながら、最後に私のフルートとアルトサックスの演奏を披露したい。






演奏会でのフルートとアルトサックスによる
「愛の賛歌」メドレー


(以下はこの講演の時に紹介するサムエル・ウルマンの詩である)


Youth -青春-

Samuel Ullman(サムエル・ウルマン)
岡本新悟訳

Youth is not a time of life; it is a state of mind; it is not a matter of rosy cheeks, red lips and supple knees; it is a matter of the will, a quality of the imagination, a vigor of the emotion; it is the freshness of the deep springs of life.

青春とは人生のある時期を言うのではない。それは心の様相を言うのだ。それはバラ色に輝く頬や、艶やかな唇、しなやかな足をさして言うのではない。それは確固たる意志、優れた想像力、生き生きとした情熱、そして命の源泉から湧き出る新鮮な力をいう。

Youth means a temperamental predominance of courage over timidity of the appetite, for adventure over the love of ease. This often exists in a man of sixty more than a boy of twenty. Nobody grows old merely by a number of years. We grow old by deserting over ideals.

青春とは怯懦を退ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心。こう言う様相を青春と言うのだ。ときには若さのただ中にある20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき、はじめて人は老いる。

Years may wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, fear, self-distrust bows the heart and turns the spirit back to dust.

歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失うときにはじめて精神はしぼむ。苦悶や、恐怖と不安、失望、こういうものこそ心を萎えさせ、精気あるある魂を塵芥に帰せしめる。

Whether sixty or sixteen, there is in every human being's heart the lure of wonder, the unfailing child-like appetite of what's next, and the joy of the game of living. In the center of your heart and my heart there is a wireless station; so long as it receives messages of beauty, hope, cheer, courage and power from men and from the Infinite, so long are you young.

年が60であろうと16であろうと、人の胸には驚異を思慕する心がある。それは、おさな児のような尽きぬ未知への探求心と、生きることの驚異と歓喜である。吾々の心の奥深く、美しいメッセージや、希望と歓び、そして勇気から湧きでるパワーを感知する見えざるセンサー(wireless station)がある。そこに霊感を受ける限りあなたは青春の中にあるのだ。

When the aerials are down, and your spirit is covered with snow of cynicism and the ice of pessimism, then you are grown old, even at twenty, but as long as your aerials are up, to catch the waves of optimism, there is hope you may die young at eighty.

霊感が絶え、精神が絶望の雪におおわれ、悲嘆の氷に閉ざされるとき二十歳だろうと人は老いる。頭を高く上げ、希望の波をとらえるかぎり (there is hope you may die young at eighty) 八十歳であろうと人は青春の中に生きる。

2022/11/17

卒寿(満九十歳)を迎えた患者さんへのお祝い
-法隆寺の奉納瓦のプレゼント-

岡本内科こどもクリニック
畿央大学客員教授
岡本新悟

近年満九十歳を超えて誰の介助もなく元気に診察を受けに来られる患者さんが少なくないことに気づいた。かつては満70歳をもって古希と称し、家族から祝ってもらうのが習わしであった。古希の言葉は杜甫の詩の一節である「人生七十古来稀なり」に由来するが、今の日本の長壽社会では満九十歳をもって古希に符合するようである。私自身古希を迎えて県医師会の「健勝会」に参加しフルート演奏などを披露させていただいており、まだまだ元気に自分の医学の専門領域にも夢をもって学会発表を続けている。そのような私の立場からみても卒寿を元気に迎えられる患者さんが羨ましく映るのである。ある患者さんは35年間インスリン治療を続けられ、自己管理も完璧で全く合併症なく九十歳を迎えられた。その患者さんは「先生にあの時インスリンをすぐ開始するようにと勧めて頂き、今まで元気に来られました。ちょうど昨日満九十の誕生日を迎えることができました。ありがとうございました。」とお礼を言われた。その時長年インスリン治療を続けてこられたこの糖尿病の患者さんの姿が神々しく見え、「私から何かお祝いをさせて頂きます。糖尿病の患者さんの手本になる自己管理ですから。」と言ってその時は診察を終え患者さんを見送った。そしてこのような患者さんの卒寿のお祝いに何が良いかと考えあぐねた末、私が時々散歩の途中に立ち寄る法隆寺の奉納瓦を思いだした。瓦に自分の願いを筆でしたため奉納するのである。それをお祝いの記念にすればよいと思いつき、瓦に患者さんの名前と「満九十歳を迎えられ心よりお慶び申し上げます。これからも益々お元気で過ごされますようお祈り申し上げます医師


写真1


写真2


写真3

岡本新悟」(写真1)と書いてプレゼントすることにした。 それを患者さんに持ってもらって、首からお祝いの金色のレイをかけ、私と一緒に記念写真を撮ることにした。記念の瓦は後程法隆寺に奉納し、患者さんとの写真は額に収めて御本人にプレゼントするのである。写真2は前述のインスリン治療の患者さんで、ナースも一緒に診察室で写真を撮った。写真3は父の時代から当院に来られている患者さんで、ご主人が56歳で亡くなられたが、息子さんが親孝行で一生懸命面倒をみておられている。ご本人はいつも周りの人々に感謝しながら過ごしておられて幸せな顔をされている。このように今まで奉納瓦にお祝いを書いた患者さんが他にも多くおられ、毎年このお祝いを送ることが私にとっても喜びである。大学病院勤務では思いつかない患者さんへの思いであり、開業医の幸せを感じながら体力と能力の続く限り患者さんと向き合いながら長生きしたいと願う毎日である。(了)

2021/9/16

アムステルダム駅でピアノを弾くアフリカからの難民青年

岡本新悟

私はテレビで放映されている「駅ピアノ」が好きで、通りがかりで演奏する人のエピソードと演奏される音楽を聴きながらその人の人柄や人生を想像するのが楽しみである。普段演奏会やテレビ録画の演奏ではミュージシャンのプライベートな部分はあまり紹介されず、演奏そのものを鑑賞しその素晴らしさに感動を覚え心から拍手を贈っている。

しかし今回たまたま観ていたオランダのアムステルダム駅での「駅ピアノ」の映像に何人かの通りかかりの人がピアノを弾いては自身の音楽に対する愛情や、いかに音楽で心が救われたかを自己紹介していた。その中でアフリカからの難民でやっとオランダンに辿り着いた黒人青年がピアノを弾いた。決して上手とは言えないがそのリズム感と彼の歌とピアノが素晴らしくマッチしてついつい彼の手元と表情に見入ってしまった。

そして周りのおおくの人々から拍手を贈られ恥ずかしそうに自己紹介していた。彼は今なお内戦がつづくアフリカから多くの人々の助けを得てアムステルダムに辿り着いたとの事で、まずは感謝の言葉から始め、今は仕事が無くて困っていると。しかしこのピアノを弾くことで全ての辛さから解き放たれて天国に居るような気分になると。

彼はピアノを弾き終わって "I can come through Heaven by playing piano" と言った様に聞こえた。彼の今の日常は決して我々から見て幸せとは思えないが、彼の歌とピアノに込められた喜びと感謝の気持ち、そしてピアノを弾き終えて満面の笑みを浮べ「今仕事は無いがここに居ることがどれ程幸せか」を全身で表現していた。母国を離れ全てを捨てアムステルダムに辿り着き今は仕事も無い彼であるが、幸せとは何かを教えてくれた。アフリカから来た名も知らぬ彼の幸せを祈りたい。

2020/9/6

バングラデシュへの医療援助10年間の歩み
―「保健文化賞」受賞と天皇皇后両陛下への拝謁―

岡本内科こどもクリニック
畿央大学客員教授
岡本新悟

はじめに

私が奈良県立医科大学在職中に指導していたバングラデシュからの留学生の故郷に医療援助として病院を建設して10年が経過した。無医村に新しくできた病院は開設当初から患者であふれ返った。しかし世界でも最貧国であるバングラデシュの患者の多くは医療費が払えず、必要な薬を病院側が負担することも少なくなかった。そのため病院の経済的自立の策としてマンゴー園の建設や、働く場をセットとしたホームの建設を行い、この10年でガジプール地区1の病院に発展してきた。これもこの支援事業に賛同して協力を頂いた日本の方々からの大きな援助によるもので、土地の人々は日本からの援助に心から感謝している。この度この事業の10年間の歩みについて協力を頂いた方々へのお礼も兼ねてレザ医師と私の共著で「Your Dream is My Dream」という本を出版した。また令和元年12月この発展途上国への医療援助を評価して頂き「保健文化賞」を受賞し、皇居において天皇皇后両陛下に拝謁する栄誉に浴することになり併せて報告させて頂くことにした。

Ⅰ. バングラデシュへの医療支援を始めたいきさつ

15年前私が県立医大で奉職中、バングラデシュから一人の青年医師Dr. Mohammad Selim Rezaを留学生として受け入れ指導をおこなっていた。彼はバングラデシュ1の名門大学であるチッタゴン大学医学部を奨学生でそれもトップの成績で卒業したエリートであった。私も多くの医師を指導してきたが彼ほど聡明で人格的にも立派な青年医師を見たことが無かった。幸い彼の英語のレベルは私と同程度で意思疎通には不自由することはなく次第に彼の人となりを理解することができ、彼も私に絶大な信頼を寄せてくれるようになった。彼は私の指導に十分応える熱心な学徒で、学会発表や何篇もの論文を書き奈良県立医科大学の内分泌学のFellowshipの資格を与えることができた(写真1)。


写真1:レザ医師に内分泌学のFellowshipを授与

また彼は日本で留学生活を送るなかで多くの方々にお世話になったことについて今回出版した本に特別にページを割いて感謝の意を表している。ふり返って今なお鮮明に思い出す事であるが、彼が4年間の留学生活を終えて帰国するにあたり、東京での学会のあと彼を「はとバス」に乗せて東京見物をさせていた時の話である。浅草寺の境内で簡単な昼食をとっている時、急に彼が神妙な面持ちで「先生お願いがあるのですが」と私を見上げて祈るような目付きで訴えるのであった。「実は故郷の村に帰って貧しい人のための診療所を建てたいのですが、資金を援助して頂けませんか」と言われたのである。彼は県立医大のFellowshipを得たあとアラブの国で高額の給与で勤務医として招聘されていると聞いていた。それが急遽故郷の無医村で診療したいとのことで、彼の思いの急変に驚いた。しかし4年間彼を指導する中で彼の人柄を十分理解しており、彼が今まで全て奨学金でカレッジから大学まで卒業してきた事から、自分を育ててくれた故郷の人々への感謝と恩義を感じていることが容易に想像できた。その時どの程度の金額が必要なのか解らなかったが、彼の帰国と同じ年に私も大学を退職することになっており、退職金が援助として役立てられると考え一瞬妻の顔が脳裏に浮かんだが「I will support your dream.」と約束した。そして彼が帰国する前日に私の部屋に挨拶にきて、「先生どうかここに立ってください、私の国で最も尊敬する人に対する感謝の気持ちです」といって私の足元にぬかずき両手で靴を抱えて額を靴に当てて「先生長い間ありがとうございました」と日本語のあとイスラムのお祈りの言葉で私の幸せを祈ってくれた。その瞬間私の心に「彼は私を絶対裏切ったりはしない、私も彼を最愛の愛弟子としてサポートしてやろう」という心になった。以来私と彼とは親子関係を超える絶大なる師弟関係となったのである。そして彼の帰国に際し彼に「山本周五郎の赤髭診療譚」の話をして「君にバングラデシュの赤髭先生」というニックネームを与える、そしして「 Your Dream is My Dream」と言って、彼の村に診療所を建てる費用を私の退職金全額を基金として使えるように約束して彼を見送った。

Ⅱ. レザ医師の帰国から病院建設まで

彼は2008年12月に帰国し、彼とはメールで連絡を取りながら病院建設の計画を練った。私は「岡本マンゴー基金」という海外医療援助基金を立ち上げ、そこに私の大学の退職金を寄付して病院建設の資金とした。日本の円とバングラデシュのタカの貨幣価値は5倍以上であるため私の退職金は用地の購入と最初の診療所の建設には十分であった。そして1年間の準備期間を経て診療所が完成しレザ医師と薬剤師、ナース、検査技師を含めた5名のスタッフで診療を開始することになった。私はバングラデシュでも日本の診療所のように患者さんが来てくれれば診療所は経済的に成り立って行くものと思っていた。しかし日本の様な保険医療システムが有るわけではなく、世界でも最貧国であるバングラデシュの人々にとって日々の生活が精いっぱいで医療に出費するということ自体ある意味贅沢なことなのである。これではせっかく手がけた診療所と職員の生活が維持できないという危機感があった。そのため私のアイディアで診療所の近くに新たに2ヘクタールの土地を購入し、マンゴーの木を植えそのマンゴーの実からの収入で貧しい人の医療費に充てるマンゴー園「Okamoto Mango Garden」の建設を提案した。レザ医師も私の計画に驚いたようで農園の購入からマンゴーの苗木の植林そしてブロック塀の建設まで私の計画通りに現地で指示してくれた。このマンゴー園のアイディアは中国の故事にある奇特な医師の話から来ている。その医師は医療費が払えない患者には診療所の庭に杏の苗を植えることで無償で治療を行い、後に大きな杏の林になったことからそのような医師を「杏林」と称するということからきている(私は一時期杏林大学医学部でお世話になったことがあり、その故事が脳裏にあった)。私はその故事を参考にマンゴーの苗を多くの支援者に1本1万円で買って頂き、その寄付金で診療所の設備と薬局を維持することに使わせて頂いた。その後毎年マンゴーの実から30万円程の収入が得られるようになっており、そのお金を身寄りのない寡婦の薬代として提供している。マンゴーの木は毎年大きくなって多くのマンゴーの実が得られるようになってきており貧しい人の支援に十分役立っている(写真2)。


写真2:マンゴー園のゲートとネームプレートを付けたマンゴーの樹

さらに今まで300人近い方々からのマンゴー基金への寄付があり、身寄りのない寡婦たちのホームの建設にも役立っている。このホームは「Mango Home」と命名し、身寄りのない寡婦が身を寄せるホームだけでなく、1階に作業施設を設置して手作業の仕事で収入を得るようにも配慮している。そして病院と薬局とマンゴー園さらにマンゴーホームを併せて「Okamoto Medical Center」として現在以前の診療所を改装し、4階建の新たな病院に向けて建設中である。そして令和元年6月基礎工事と一階のエントランスと診療施設ができ(写真3)さらに2階には産科病棟から手術室への総合病院への発展を考えている。ただ病院からの収入だけでは病院の維持と職員の給与で精一杯の状態であり、経済的に自立できる発展途上国の医療施設の維持とレベルアップをどうするか現在もレザ医師と模索中である。


写真3:Okamoto Medical Center のエントランス
と診察を待つ患者さん達

Ⅲ. Okamoto Medical Center の今後の計画

以前私と家内が現地を訪れ診療を行った経験から、発展途上国の医療事情は我が国の様な先進国の医療とはいろんな面で想像を絶する違いがあることを実感している。日本の医療施設は独立採算でも施設運営ができる程豊であり、むしろビジネスという一面で発展を後押ししている観がある。しかし発展途上国ではまず医療保険システムや国から補助がなく医療費や薬代は全て自費である。そのため貧しい人々にとって病院は手の届かない別世界なのである。まして国家そのものが政情不安を抱えており医療に十分な予算を組めないのが実情である。この様な発展途上国で個人の医療機関が経済的に成り立っていくこと自体不可能であると言うのが実情である。そのためには医療施設を維持できるための経済的基盤を持たなければ維持できない。その一つの方法として私が考えだしたのが「マンゴー園」であり「マンゴーホーム」である。バングラデシュでの医療援助で私が学んだ事は、「医療費が払えない人々に僅かなりとも収入の場を与え、卑屈な思いをせずに医療が受けられるようにする方法を講ずること」が発展途上国における医療支援にとって重要なことであることが分かった。すなわち患者さんと家族に働く場を与えわずかなりとも収入を得て治療費を支払うという策である。バングラデシュは北海道の広さに日本をはるかに超える一億六千万人の人口がある貧しい国である、一方東南アジア諸国の中でも著しい経済発展を遂げている国である。特に農業と織物産業が盛んで、私のアイディアであるマンゴーなどの果樹栽培や手作業による織物工房とのセットで医療施設を維持する方法こそが他の発展途上国にも可能な方法であると考えている。このシステムについてはノーベル平和賞を受賞したバングラデシュのユヌス学長との会談でも高く評価していただいた。そしてなんとか「経済的に自立てきる医療施設」をと考えてきたわれわれのOkamoto Medical Centerはやっとその基盤ができたというところである。そして4階建の総合病院が完成するまでにはまだまだ日本からの資金援助が必要であるが、レザ医師を始めスタッフも少ない給与で精一杯働いてくれている(写真:4)。そして私の夢は Medical Centerの最上階にナースの教育と日本からの研修医を受け入れる研修センター「Medical Education Center」を設けて発展途上国の医療を体験できる病院にしたいと考えている。


写真4:レザ医師(中央)と6人のタッフ

いずれこの病院が経済的に自立できた暁には奈良県立医科大学付属の海外研修施設として大学に寄付し、さらに発展させて頂ければと考えている。レザ医師も奈良県立医科大学の研究生であったことで、彼もぜひ日本からの研修生を受け入れプライマリケアの指導をして恩返しができればと同じ夢を描いている。そして私のアイディアである「医療施設と地場産業とをセットとした支援システム:Mango Project」により発展途上国の無医村をなくす活動が世界に広がってくれることを願っている。

Ⅳ.「保健文化賞」受賞と天皇皇后両陛下への拝謁

このバングラデシュへの国際医療援助に対してこの度「第71回保健文化賞」を受賞し、令和元年12月18日受賞式後に皇居において天皇皇后両陛下に拝謁する光栄に浴することができた。今回の受賞は団体受賞10団体と私を含む個人受賞5名であった。拝謁式は赤坂御所の「檜の間」で執り行われ、皆が整列して緊張しながら両陛下のお出ましを待った。部屋の奥の扉が開いて侍従の案内で天皇陛下と皇后様がゆっくりとした足取りで入って来られた。そして天皇陛下の穏やかなお顔と皇后さまの優しい笑顔で張りつめた空気が瞬時にしてなごみ部屋全体が温かい雰囲気に包まれた。そして天皇陛下が労をねぎらうお言葉を話された後、皇后陛下とお二人で受賞者一人ひとりの前に進まれ、各自の仕事の内容をお聞きになった。両陛下が私の前まで進んで来られた時にはさすがに緊張を覚えたがバングラデシュの医療事情と現在のOkamoto Medical Centerの発展、そして多くの方々からの援助で発展しておりますと紹介した。陛下はうなずきながら興味深くお聞きくださり、最後に雅子皇后さまから「これからも頑張ってください」と温かいお言葉を頂いた。30分程の両陛下への拝謁は別世界に居るような感じで家内とともに何か満ち足りた気持ちで皇居を後にした(写真5)。


写真5:皇居にて天皇皇后両陛下に拝謁(令和元年12月18日)

おわりに

この度バングラデシュへの医療支援10年間の歩みについてレザ医師と私の共著で
"Your Dream is My Dream"
Ten year walk of Okamoto Medical Center
と題してレザ医師の生い立ちからバングラデシュの医療事情、そしてOkamoto Medical Center の建設から発展までを1冊の本として出版することになった(写真6)。ご希望があれば贈呈させていただく事にしており、奈良県医師会に連絡頂ければお送りさせて頂くことにしている。


写真6:Okamoto Medical Center 10年間の歩み英文(日本語訳付)

付記:
 この度の受賞に京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥教授から「このたびの保健文化賞のご受賞、誠におめでとうございます。岡本先生の長きにわたるご努力とご功績が評価されたものと、確信しております。」と心温まるお祝いの言葉を頂戴したことをここに紹介させて頂きます。 (2020/1/15)

熱中症対策はすでに太平洋戦争中に発見されていた
―Conn症候群(原発性アルドステロン症)から学ぶー

岡本新悟

はじめに

今年の夏も熱中症で亡くなる高齢の方が相次ぎ、テレビの天気予報でも暑さを避けて水分の補給を怠らないようにと注意を促していた。私は熱中症で亡くなる方がニュースで報道されるたびにある内分泌の疾患を思い出す。そしてもう少しその発症のメカニズムから解説されたなら早期に発症を防げるはずであると思っている。今回少し紙面を頂き私の専門の内分泌から熱中症の発症メカニズムとその予防と治療について解説し、先生方のお役に立てれば幸いである。

1)太平洋戦争中に発見されたコーン症候群(原発性アルドステロン症)と熱中症

太平洋戦争で日本軍がフィリピンからマレーシアそしてニュギニアへと南方戦線に軍を進めている時のことである。日本軍を阻止するためにアメリカ軍はハワイから兵士を直接軍用機で酷暑の戦地に送り届ける作戦を開始した。すると戦うまえに暑さで倒れてしまう兵士が続出した。これが医学書に記載されている熱中症である。そこでアメリカ軍は「暑さに対する馴化のメカニズム亅解明する為に多くの医学者を総動員して対策に当たった。そこに白羽の矢が立ったのが副腎皮質ホルモンを専門とするコーン教授であった。彼は被験者が暑さに馴化して行く過程で汗や尿中さらには唾液中に排出されるナトリウムの量が減りカリウムが増えることに注目し、その変化に大きく寄与しているのがアルドステロンであることを明らかにしている。そして彼はさらに高血圧と低カリウム血症を呈するある女性の患者を詳細に検討するなかで副腎にアルドステロンを産生する腫瘍があるはずであるとの結論に至り、その患者の了解を得て開腹し副腎に腫瘍を発見した。血中アルドステロンの測定法がまだ確立されておらず、CTなど副腎の解析に必須の画像診断のない時代に副腎にアルドステロンを産生する腫瘍の存在を言い当てたのである。開腹手術に立ち会っていたコーン教授はこの時のことを回想し、術者が「腫瘍があった」と言った瞬間、彼は今この瞬間に一つの疾患が明らかになった事、そしてこのような疾患はけっして少なくはないであろうと言うことが脳裏をよぎり、その後自宅までの帰りみち興奮覚めやらずどのように自宅にたどり着いたか覚えていないと述べている。これがコーン症候と呼んでいるアルドステロン産生副腎腫瘍発見のいきさつである。私はこのたった一例の症例を詳細に調べることから一つの疾患を明らかにしたコーン教授こそが私の内分泌学の中の輝ける巨星なのである。少し横道にそれたが日本軍は暑さにバテタ兵士にタルンデいると喝を入れていたころ、アメリカ軍は兵士が暑さに馴化するためのメカニズムを科学的に解明し南方戦線でアメリカの圧倒的な勝利となったのである。

2)熱中症をホルモンの調節から理解すれば

熱中症とは長時間高熱の環境下で水分や塩分の補給が不足した結果発症する、脱水を主徴とする循環不全と多臓器不全と理解されている(医学的には確立された定義はない)。まず過酷な暑さにわれわれの身体はどのように対応するのか、暑さに対する馴化のメカニズムから熱中症を考えてみるとする。汗からの水分と塩分のロスが続き脱水と低ナトリウム血症が起こればそれを補正するように働く3つの調節系がある。そのトップがレニン-アンジオテンシン-アルドステロン系で、腎臓で水とナトリウムの不足を感知し、レニン-アンジオテンシンを介して副腎皮質からのアルドステロンの分泌を刺激し、そのアルドステロンが尿細管に働いてナトリウムと水を再吸収し脱水とナトリウム欠乏を回避するというメカニズムである。さらにそのようなストレス下で下垂体からACTHを介して副腎皮質からコーチゾールの分泌を刺激してナトリウムと水の再吸収を促すとともに糖の供給を促す働きも持っている。また脱水に対しては下垂体後葉からのADH(抗利尿ホルモン)が腎に働き水の再吸収を促して水の保持に働いている。この3系統の働きが暑さに対応できなくなることにより熱中症に陥るのである。この3つの熱中症対応能力は訓練することでレベルアップできることは太平洋戦争のときにすでにアメリカ軍が科学的に証明している。

3)熱中症の予防は可能か

エアコンが完備されたわれわれの生活では、夏が近づいて気温が上がってくると少しの暑さでもクーラーをかけるため、身体が暑さに馴れるための時季をなくしてしまっている。そして年中25℃前後の環境で暮らしていためいつしか暑さに馴化できない身体になってしまったのである。即ち暑さに対応してくれるはずのレニン-アンジオテンシン−アルドステロン系を初めとする3系統がレベルダウンしてしまったという事である。そのような状態に酷暑が続き水分や塩分の補給が不十分となると普段元気な者でも熱中症に陥ってしまう。ましてや下垂体や副腎に病気を持っていたり、高齢者あるいは普段高血圧で利尿剤やレニン、アンジオテンシン、アルドステロン系の拮抗薬を服用している患者は熱中症のリスクを有するとして注意が必要である。 そのようなメカニズムから考えるなら、夏の猛暑のまえから時々クーラーを止めて汗をかくとか、日に当たる時間を持つことも必要である。甲子園の猛暑の中で球児たちが熱中症で倒れた話しは聞かない。彼らは野球の練習だけでなく熱中症対策としての訓練もできているのである。

4)熱中症に対する適切な治療とは

熱中症の発症メカニズムから考えるなら脱水と低ナトリウム血症を主徴とする急性副腎不全に準じた救急医療を行うことである。基本は生食+5%ブドウ糖補液にハイドロコーチゾンを加えて点滴することである。治療開始まえに電解質を含め血中ACTHとコーチゾールできればレニン活性とアルドステロンの測定用に採血を行なっておき、後程それが熱中症であったかどうか確認が必要である。熱中症であればこの治療で補液が終わるまでに見違えるように回復するはずである。

おわりに

本稿はこの夏休みケニヤに旅行中、現地の子ども達が直射日光の酷暑のなか帽子もかぶらず羊を追たり走り回っているのを見て、この国には熱中症というものがないと確信した、小さい時からクーラーもなく暑さに馴化した生活を送っている彼らとわれわれの生活を比べてふっと疑問を抱いた。すなわち環境に適応していくのが進化なら、われわれは生活環境を自分にあわせる生活をして進化に逆行しているのである。熱中症はある意味近代化による生活習慣が引き起こした落し穴とも言える。私はケニヤから帰って以来、暑くてもクーラーを止めて汗をかくsweating timeを適度に続けている。


猛暑の中タキギを背負って帰るケニアの女性


猛暑の中登校中のケニアの生徒たち

日野原重明先生に学ぶ
「明日の日が待ちどおしくなる生き方をもとめて」

岡本新悟

1.はじめに

日頃ドクターとして患者さんの健康管理をお引き受けしております関係から、日々の生活が楽しくあるためには普段からどのような心がけが必要か患者さんとの対話の中から思いをめぐらしております。
そして此のたび「明日の日が待ち遠しくなるような生き方をもとめて」と題して患者さんから頂いた知恵や自分自身の思いを含めてお話しすることに致しました。私の様な若輩が自分の思いを話しても説得力に欠けると思いまして、今年五月に百○五歳で亡くなられました皆様ご存知の日野原重明先生の生き方から学ぶと題し、先生がお残しになった言葉を日野原語録として紹介させて頂くことにしました。

最初に「明日の日が待ちどおしくなる生き方」とはどのようなものか。
そしてその様な生き方をする為には日頃どのような心の持ち方が大切か
最後にそのようないきか方に役立つ十の日野原語録を紹介したいと思います。

2.「明日の日が待ちどおしくなる生き方」とは
本日の私の話のテーマは「楽しく生きるための方法」で、「明日の日が待ちどおしくなる生き方をもとめて」というわかりやすいタイトルにしました。このタイトルを持ちだすことになったのは、「人にとってどのような生き方が幸せなのかな」と考えているうちに、私自身の小さいときの思い出をたどっていきますと、小さいときには毎日が楽しくて明日の日が待ちどおしかった様に思います。いつもわくわくして明日の日の楽しみを夢見ながら寝むるという本当に幸せな日々でした。まだ楽しみそのものを手にしていないのに幸せいっぱいの気持ちを抱きながら眠りにつくといった幸せな気持ちは今でも懐かしく思い出せます。童謡の「もういくつ寝るとお正月」の歌詞の様に、明日の日の来るのをわくわくした気持ちで待っている様子が伝わってきます。年とともにあのわくわくした感情を経験することは殆どなくなり、むしろ明日の日の不安や過去から引きずっている悩みにとらわれ、子供のころにあった「明日の日が待ちどおしいという思い」なんて最近は経験したことがないというのが本音ではないでしょうか。大人となった今「明日の日が待ちどうしくしくなる生き方」のために一体に何がわれわれの支障と成っているのか、それを解決する方法に私のドクターとしての経験から得られた方法を紹介したいと思います。日野原先生も「明日の日がまちどおしい」という言葉を御本の中に何度か書いておられましたので、先生の生き方からも学びながら、皆さまに明日の日が待ちどおしく成る楽しい生き方の方法を紹介できれば幸いです。

3.すばらしい明日の日を台無しにするのはいったい何か

なんと言ってもせっかくのすばらしい明日の日を台無しにされるのは、日々のストレスやそれから生じる悩みではないでしょうか。これさえ無ければ毎日が楽しいのにと解決できない苦しみにもだえることになります。私も若い頃「悩める自分への賛歌」と題してこんな詩のような文を日記に残していました。

   悩める自分への賛歌

  人は日々悩みや苦しみを抱えながらも
今日一日を生きていかねばならない

  悩みから解き放たれてこの重荷を少しでも軽くして
今日一日を元気で楽しくい生きていけないものか

  一瞬先の命も分からない野の小鳥や動物たちは
どうしてあんなにイキイキと命を謳歌できるのか

  籠の中で命を終える小鳥やリスたちも
どうして籠を忘れてさえずり跳び回れるのか

  心の翼をいっぱい拡げ小鳥のように青空を羽ばたき 
野の花々を見下ろしながら悩める自分に声を掛け

こんな美しい世界があるのに悩みなんかいらない
「悩みなんか捨てて元気を出して」と言ってやりたい

 
暗くなりましたが、こんな詩のような文を作るほど私も悩みにさいなまれていたときがありました。しかし医師となって自分の内分泌というホルモンと神経系の調節を専門分野としていろいろ研究するうちに、私なりにストレスの解決法を考えだしていました。五年前に第4回あしたのなら表彰の表彰式で講演を行いました。
そのとき「日々元気で若々しく生きるための脳の使い方」と題して講演をさせて頂きました。要するにどうすれば上手にストレスを処理できれうかということで私の専門の内分泌というホルモンの調節機構から説明いたしました。

4. ストレスの上手な処理法と上手な脳の使い方
ストレスとは日々われわれに振り掛かってくる解決困難な問題による持続する精神的な不安状態といえます。その原因は人さまざまで、病気の不安や金銭的な不安、職場での人間関係、家庭内の問題、自分自身の心の問題など数えだしたらきりがありません。それらをわれわれの脳はどのように処理しているか、そこから脳を上手に使ってストレスを処理する方法を紹介します。

5. 脳の機能からみたストレスを処理するメカニズム

われわれの脳にはいろいろな情報を処理する脳神経系のネットワークがあります。それは神経線維であるニューロンのシナプスと呼ばれていて何億というシナプスの回路があります。まず外界からの情報が眼や耳、身体全体から脳皮質に情報が伝えられますと、その情報を処理して、どのように行動に移すかといったといった方向付けをします。その上位からの情報を処理してそれをそれぞれの担当に指令を出すところが視床下部という神経系や内分泌系のセンターです。映画のゴッドファーザーを御覧になったことと思いますが、脳の中のゴッドファーザーが視床下部と言えます。そこから命令が下って副腎に神経系と内分泌系を介して刺激が送られアドレナリンやステロイドが分泌されます。この二つのホルモンがストレレスを乗り越えるためのホルモンで脳や筋肉に糖分を送ったり血流を増やしたりして対応します。
この調節系を上手に扱えるか、下手なストレス処理をするかどうかでわれわれの体に負担を掛けることになり、このアドレナリンやステロイドが過剰とまりますと高血圧や糖尿病さらにはコレステロールが高くなって動脈硬化が進み脳梗塞や心筋梗塞あるいは癌の発生の引き金にもなります。
要するにこのストレス処理機構を上手に扱えるかどうかが大切で、孫子の兵法に「敵を知り、己を知れば百戦して危うからず」という言葉のとおりストレスを知ってその処理法を知れば「明日の日が待ちどおしく楽しく生きていける」と思います。

6. ストレスを上手に処理できる人は長生きする
このストレス調節系を上手に扱えるかどうかは脳の働き方によって左右されます。ストレスを脳で上手に処理して視床下部から副腎に至る調節系にどのように乗せるかどうかで身体への負担が大きく変わります。
たとえばすぐ切れるひとは、人に何か言われて気に食わなければカットなってすぐ怒り出す人で、副腎からのアドレナリンが大量に出て、動脈硬化が進み、心筋梗塞を起こしやすく早死にします。一方気に食わぬことがあっても心の中で処理して、「こんなちっぽけなことに付き合っていられない」と洗い流してしまう人はアドレナリンが過剰とはならず適度にでて平静でいられるのです。世間で「できた人」「温厚な人」といわれるひとは結局このストレス処理法が上手で長生きするのです。すなわち温厚であるため動脈硬化が進みにくく認知症にもなりにくいということです。

7. 偉人達の名言にはストレスを上手に処理する知恵が隠されている

古来「名言」とか「遺訓」という、人生の達人たちの残した言葉あります。一体この名言とは何かといいますと、その人が苦難に遭遇したときに会得した人生訓で、言い換えますとその人のストレスの処理法なのです。

たとえば徳川家康の「己を責めて、人を責むるな」とか
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え」

また今テレビで放映中の西郷隆盛の言葉は(西郷南州遺訓)として
「事の大小と無く、正道を踏み至誠を推し一時の詐謀を用う可からず」

上杉鷹山 
国家人民のために立たる君にして
君のために立たる国家人民はこれなく候

キリストの言葉には
「汝の隣人を愛せよ、汝の敵を愛せよ」

これらの言葉には悩みや苦難などのストレスから自分を解き放つ知恵が隠されています。そのため私は五年前にあしたのなら表彰の特別講演を頼まれたときに名言集から100近い名言を抽出してそれぞれのキーワードをコンピューターで処理次の3項目が最も高得点でした。
すなわち

(1) 人を愛する

(2) 自我や欲に執着せず己を捨てる

(3) 真理や天命、神を受け入れる

(4) 人の為に成し、人の喜びを喜びとする

それを簡単な言葉で要約しますとこの四原則になります

(1) 人を愛する

(2) 己を去る

(3) 天に則した生きかたをする

(4) 人のために生きる

これは偉大な故人たちの遺訓や名言の統計学的解析から得られた結論で文章にすると

人を愛し、人のために生きれば
己を去って
天に則した生き方ができ
日々楽しく充実した生き方ができる

これが偉大な人たちの教訓のエッセンスであり、いろいろなストレスに悩むときにここに帰って考えを変えてストレスから解き放たれて楽しい生き方を模索することであると私も日頃からこの考えを大事にしています。この言葉をそのまま生きてこられたのが日野原先生だと私は感じております。先生とはいろいろなところで懇意にしていただき、先生から直接学ぶこともありましたので簡単に先生を紹介して先生のお考えを日野原語録として紹介します。

8. 日野原重明先生とはどのような方か
今年平成三十年の五月に百0五歳で亡くなられたことは御存知と思います。先生については「聖路加国際病院の名誉院長で百歳を超えても現役の医師としての診療を続け、多くの講演や生きたかについての本を書いてこられた先生」というのが一般の方々のイメージではないでしょうか。これは先生の一面であってわれわれドクターにとってはとてつもない大きな仕事をされてきた偉人であり知の巨人であると言えます。氷山のようにそのその一角しかわれわれの眼に入らないが、その下に隠れているとてつもない大きな氷山として膨大な医学研究と臨床医学への貢献があり、さらに一臨床医として患者さんには親身になって接する先生の姿があります。私が大学を卒業して医師になったちょうどその頃、昭和四十七年ですが、患者さんを診察して診断する方法についての新しい改革がありました。それはアメリカで始まり一気に世界に広がった Problem Oriented system という考え方で、患者さんにとっての問題点をリストアップしてそれをサイエンティフィックに解析して診断し治療を行うという方法です。一見当たり前に聞こえますが、それまでは医師が経験で診断し治療を行っていたのを、科学的に解析して診断するという方法です。いまでもこの方法をPOシステムとしてわれわれも使っています。先生はこのPOシステムをいち早く日本に紹介され解説書を書かれました。私もその本を持っており「赤本」と呼んでおりました。
私の今行っている診断方法の基礎はPOシステムそのもので、日野原先生は医師としての恩師であるとも言えます。
その後先生の御本にふれることが多く、先生が最も尊敬されていたジョーンズホプキンス大学とオックスフォード大学の教授を勤められたウイリアム・オスラーの伝記ともいえる2冊の本「平静の心」と「医の道求めて」の大きな著書も私は夢中で読みました。日野原先生の考え方や生き方に最も影響を与えた偉人がウイリアム・オスラーで、日野原先生御自身もオスラーの生き方に心酔されていることがよくわかりました。
そのため先生はウイリアム・オスラーの偉業を讃へその業績と心を多くの後進の医師に伝えるための世界的な集まりであるオスラー協会の日本代表として毎年開かれる講演会で講演されてきました。ちょうど先生が百○二歳のとき今から3年前にロンドンのオックスフォード大学で開かれたオスラー協会講演会に声をかけていただき御一緒させて頂きました。そのときの先生の御様子などは医師会雑誌にエッセーとして書きましたので御覧ください。先生は百0二歳の高齢でしたが、何百人という世界からのドクターを前にして英語で堂々とこれからの医師像について話されました。皆は先生の話に感動するだけでなく、百歳を超えた高齢でここまで頭脳明晰でユーモアもある先生の話しぶりに大喝采でした。講演のあと先生とのツーショットの写真取るために長い行列が出来るくらいでした。一緒に同行したわれわれ日本代表は鼻高々でした。先生とは行きと帰りの飛行機で御一緒させていただき、直接先生から先生から話しを聞く機会もありました。またバッキンガム宮殿を見学して帰り少し足を痛められ、私がお部屋まで診察に行ったこともありました。先生は御高齢で足元が危ないことがありましたが、足はさすがに先生を百年以上支えてきたしっかりした骨格でなるほどと感心しました。
それまで私は先生の「生き方」や「人生の楽しみかた」などについての単行本は読んでおりませんでしたが、私が荒井奈良県知事と一緒にシニアの方々の学びの場である「奈良県立シニアカレッジ」を創設してから日野原先生の御本に目を通すことになりました。読んでいるうちに私が抱いていた先生の生き方のイメージをそのまま集約するすばらしい言葉に感動することが多く、毎回奈良県立シニアカレッジの開校式には「基調講演」の中に日野原先生の言葉を紹介しながら話を進めています。本日は先生の言葉である日野原語録を紹介しながら「明日の日が待ちどおしくなる生き方」についてお話します。

9.どうすれば楽しく生きることができるか、日野原先生から学ぶ
私自身もどうすれば楽しく生きていけるか、当然模索して来ました。しかし日野原先生の名言はすばらしく先ほど紹介した教訓の四原則をそのまま生きてこられた方であると納得しました。

先生は人を愛し、
人のために生きてこられ
天に則した生き方をされ
百○五歳まで充実した楽しい人生を送ってこられたのだと納得できます。
先生のいろんな書物から名言を拾い出して紹介しながら先生に意図されている考えを紹介したいと思います。
先生の著書に「生きるのが楽しくなる十五の習慣」がありますがよくまとまっていると思います。

日野原語録一
人を愛することを心の習慣にして憎む心を持たない

多くの人と知り合いになってその人の長所を見ようと心がけているうちにその人が好きになりより良い人間関係が生まれてくる。
心健やかに人生を楽しむためには「憎む」という心を持たないこ  
とです。(百年ちかく生きてきた私が言うのですからと)

(コメント)私自身も先生と同じく「人の喜びを喜びとする習慣を大事にしています」

日野原語録二
どんなときも自分の事は自分で責任をもつこと

何か自分にとって都合の悪いことが起きてもその責任と原因をまず自分に求めるようにしています。人に責任をおしつけている間、あなた自身の心がどんどん貧しくなっていきます。どんなときも自分のことは自分で責任を持つ習慣が必要

(コメント)この考え方は人が社会人として生きて行くうえでの必須の考え方で、その考え方が無ければ人間的に成長しないと言えます。
夫婦喧嘩でも同じで妻に文句を言うよりそのような女性を妻にした自分に責任があるということです。

日野原語録三
明日について思いわずらわないこと

その日の仕事をせいいっぱいやり、明日について思いわずらわない
聖書に「その日の苦労は、その日だけで充分である」とあ。
遠くにあるぼんやりしたことを見るのではなく、目の前にはっきり見えるものを実行に移すことである。

 (コメント)私の場合、今日精一杯努力すれば、あとはどのような結果となっても納得し、最悪でも受け入れる覚悟を持って当たっています。「最悪を受けいれる覚悟」で当たるのも明日を思い煩わない方法ではないでしょうか。

日野原語録四
目標となる人から学ぶ事の大切さを知ること

肝心なのは自分の二十年後をできるだけはっきりとイメージすることであり、こう成りたいと思う人を決めることです。
モデルとなる人に近づくためには今何をすべきかどのように努力すべきか、やるべきこと、選ぶ道は自然と決まってくる。

 (コメント)日野原先生はウイリアム・オスラーから大きな影響を受けられ必死にオスラーに近づけるように努力されてきました。そして先生は日本にオスラー協会を設立される程オスラーを尊敬されていました。
私自身は医学の道では偉大な恩師がおられ、亡くなられましたが今での先生ならどうされるかと自問して努力している。やはり尊敬する恩師を持つこと、それは直接でなくても著書から得られる尊敬する人であっても良いと思います。

日野原語録五
良いと思う習慣があったら、すぐにこれを実行する行動力を養う

鳥は飛び方を
動物は走りかたを変えられない。
しかし、人は明日からでも自分の生き方、
つまり生活の習慣を変えることができる。

「体だけでなく、心の持ち方までの自分の決意次第で変えられるということを皆様にわかってほしい」と日野原先生の本のまえがきに述べられています。そして 良い習慣を身につけるために必要なのは、はじめの一歩を踏み出すちょっとした勇気と決断である

(コメント)私もこれは良いと思ったことは即トライして自分の習慣となるまで続けます。それをやらないと気持ちが悪いというところまで続けますと以降はずっと続けられます。 たとえば英語の本を朝一ページ必ず読むとか、健康管理のために朝自分の工夫した We are Looking 体操を必ずやるとかもう二十年近く続けています。

日野原語録六
考える習慣が好奇心を育み、脳をいつまでの若々しく保つ

人間は歳とともに枯れるのではなく成熟するのです。成熟に向かってこれからもいろいろな方面で学び考える習慣を培っていくように努めたい

疑問が生じた場合、どうしてこうなるのだろうかと結論が得られるまで考え続けること

(コメント)考える習慣というのは非常に大切なことで、何か疑問を抱いたときにその原因を明らかにするためにまず自分で考えることが大事です。
たとえば「子供のころの遊びをもう一度」トライすると
改めてその面白さとその奥に隠れているサイエンスの面白さに夢中になります

   日野原語録七
常に新しいことにチャレンジする心を持ち続けること

興味を持ったことには、それが今までの自分の専門外であっても
臆することなくチャレンジすべき

新しい事にチャレンジするという気持ちには年齢制限はない
あふれる好奇心と興味をもって何にでも挑戦する気持ちがある限り老いとは無関係である。

(コメント)日野原先生は専門分野以外にも音楽から作詞、オペラのシナリオ、作曲など思いもよらないことにチャレンジされ驚くことがあります。私もいろんなことにチャレンジするという点では先生に引けをとらないと思っています。できるだけ多くの事にトライし趣味も音楽から絵画、作詞、スポーツなど興味があるものなら何でもトライして楽しいものはそのまま続けています。脳の多くの領野を刺激するという点ではあらゆる種類の趣味を持つことが大切です。

日野原語録八
楽しみを見出す習慣を持ち続ける

永遠に若い肉体を保つことは不可能です。健康でどんなに鍛え抜かれて体でもいつかは衰えていきます。ところが心は違います。いつまでも歳をとらないばかりか、成長し続けることもできます。

私が、よく人から若いと感心されるのは、つねに楽しみを見つける習慣があるからだと思います。そのうえ、いつも冒険心を持ち、新しいことに挑戦しようとする心構えをもつことも若さを保つために必要だと思います。

 (コメント)私の場合も同じで一、二週間先に楽しみとなる予定を入れます。たとえば近くの海でキャンプをするとか、自分で作ったコンサートでフルートを演奏するとか、研究会で自分の研究を発表するなど自分を表現する場をできるだけ多く作ることが大切です。日野原先生の多くのチャレンジも多くの人の前で自己表現することであったと思います。人の前で「かっこよいところを見せる」ということは非常に大切な事だと思います。私にとって「かっこよく生きる」のはポリシーの一つです。かっこ良く生きようとするのはなかなか大変で、人並み以上の努力とパフォーマンスのための心臓が必要です。それは若さの秘訣でもあると思っています。

日野原語録九
うまく時間を活用できるように集中力を鍛える

集中力を鍛えるために私はどんな短い時間でも無駄にすることなく
有効利用する習慣をつけている

 (コメント)先生はお忙しいので少しの時間でも原稿を書いたり、論文に眼を通したりされています。私の場合、「三十分ルール」とう方法で趣味や勉強、文書の作成など三十分で切り上げるようにしています。それ以上は続けない。そうすると短時間に集中して仕事ができ飽きてこない。三十分づつ同時進行で仕事や趣味を楽しみます。

日野原語録十
先生の私達に残された最後の言葉
“Keep on going, Progress with hope!”
「 希望をもって前進あるのみ」

(特別講演原稿:於「幸玉会館」平成三十年十一月二十五日)

 

日野原語録

一、愛することを心の習慣にして憎む心を持たない

二、どんな時も自分の事は自分で責任をもつ

三、明日について思いわずらわない

四、目標となる人から学ぶ事の大切さを知る

五、良いと思う習慣があったら、すぐにこれを実行する行動力を養う

六、考える習慣が好奇心を育み、脳をいつまでの若々しく保つ

七、常に新しいことにチャレンジする心を持ち続ける

八、楽しみを見出す習慣を持ち続ける 

九、うまく時間を活用できるように集中力を鍛える

十、“Keep on going, Progress with hope!”
「 希望をもって前進あるのみ」
(先生の私達に残された最後の言葉)

                          岡本新悟編

 

 

 

大晦日スリランカの寺院での不思議な体験
 ―背中で手を引いてあげたおばあさんの話―

岡本内科こどもクリニック
元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本新悟

平成二十九年の年末から年始にかけて家内と娘との三人でスリランカに旅行し、大晦日の夜スリランカで最も大きな寺院であるダラダー・マーリガーワ寺院、日本語では「仏歯寺」にお参りすることになった。「仏歯寺」は釈迦の歯を収めている仏教寺院で、寺院の二階の金の廟の中に釈迦の歯が七重の金の容器に収められ安置されているという。一日三回「プージャ」といって廟の扉が開かれ一般公開されるというのである。

丁度その日の夜七時からプージャがあるとのことでスリランカのガイドに大きな白い石壁に囲まれた境内に案内された。すると見上げるような白亜の大きな寺院の門前までひしめくようにお参りの人で立錐の余地がない混雑である。土地の人々はみな白い衣装に身をまとい手にお供えの蓮の花をうやうやしく持ってゆっくり入り口に進んで行くのである。やっと寺院の中に入ることができ、さらに大きな扉をくぐると耳をつんざくような太鼓と銅鑼の音で鼓膜が破れるかと思うほどの響きで慣れるのにしばし時間が掛かった。全身を揺さぶられるような音響で考える力まで持って行かれるようで、圧倒されながら廟に至る大きな階段に近づいて行った。階段は横に十人ほど並んで登れる大きさで、二階の廟の手前まで大きな回り階段状になっていた。ほとんどが白いサリーで身をまとったスリランカの土地の人々で所々に外国からの観光客のグループが見られた。家内と娘が前でその後を私が手すりをもって一歩一歩上がって行った。一歩上がるのに一分以上かかるゆっくりした流れでしばらく立ち止まることもあった。

五、六段上がって止まって進むのを待っていると私の背中の腰の上近くをそっと押す人の手を感じ振り返った。すると白いサリーを身にまとった背の低い小さなおばあさんが痩せ細った黒い手を合わせて私の背に乗せているのである。おばあさんと目が合ったとたん私の顔を見上げてニコッと笑ってくれた。やせこけた黒い顔でニコニコとした美しい笑顔に私もできる限りの笑顔を返した。年はとっているがキラキラ光る美しい眼差しと白い歯が印象的で、その時このお年寄りは足が不自由で私に寄りかかりながら私の背中に手を乗せてこの階段を上がろうとしていると思った。一段一段上がるたび私の背中におばあさんの手のゆれを感じ、私もおばあさんの手を引くつもりで二階までの二十段近くを登って行った。途中曲がり角でもう一度振り返っておばあさんの様子を見たが、同じ様に合わせた手を私の背に預けて私の方に笑みを浮かべてくれた。その笑みは背中で手を引いて導いてくれている私に対する感謝の気持ちと理解した。そして二階まで登り詰めた階段の隅にお供えの花があり、それをもらいに列から少し離れしばらくして戻った時にはそのおばあさんはどこにも見えなくなっていた。

足が不自由なら私の目の届くところにおられるはずであるがどこを探しても、階段の下の信者さんの休むところを見下ろしてもおられない。そのまま拝観者の流れに押されながら金色に輝く廟の前まで来て黄色い袈裟をつけたお坊さんが差し出す銀の盆の上に蓮の花を供えて拝礼して階段を下りていった。

その後も拝観者の流れに任せながら外にでて、預けていた履物を受け取って夜の寺院を何か不思議が思いを抱きながら広い境内出て行った。その日は満月で東の空にあった月は丁度頭の上に輝いていた。ホテルへの帰り道そのおばあさんの話をすると娘が「それはパパの幸せを祈りながら合わせた手を背中に乗せてくれていたんだよ」と言った。娘の知るところによると、仏教では僧侶の修行として真っ暗なお堂の中で目を閉じて手を合わせ、前の僧の背中に手を乗せて拝みながら数珠繋ぎになって堂内を周回する行があるという。私がおばあさんの手を背中に乗せて手引きしながら二階まで導いていたというのは私の思い上がりで、おばあさんに祈っていただいていたのでる。帰り道ふと自分が診ている患者さとそのおばあさんのイメージが重なって「手助けしているという思いが実は祈ってもらっている」という教えをこのスリランカの旅で頂いた。そして今思い出してもあのサリーを着た小さなおばあさんは一体どういう方なのか、そしてどこに行かれたのか不思議でならない。          

平成三十年一月二日、帰りの機中で

 

「ひとの喜びをする」おばあさんの話
― 患者さんから頂いた心に残る一言から ―

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本内科こどもクリニック院長 岡本新悟

文末に挙げてある「そんな私でありたい」という私自身に対する自戒の詩の中に「ひとの喜びを喜びとし」という一節がある。 この「ひとの喜びをする」という言葉には想い出がある。

今から三十年まえ父が他界した後、私は父の医院の後を継いで月に一度、都祁村という山辺郡の山奥の村に車で一時間以上かけて往診に行っていた。
患者さんたちは以前父が村の診療所に勤めていたときに診ていたお年よりで、父はその村の方々を大そう気にいっていた。 いずれは都祁に庵でも建てて老後を村の人々と一緒にゆっくり過ごしたいと言っていたほどである。
そんなわけで私は雪の降る夜の往診も父の遺言と思ってタイヤチェーンを巻いて出かけて行っていた。

月に一度の定期の往診では、最初に伺うお宅が福井さんという元校長先生のお宅で、数人のお年寄りの方が私の訪問を待て下さっていた。 私の車が着くと何人もの方が玄関先まで出てきて「先生ご苦労さまです」といって私の持っていた往診カバンをもってお宅に案内してくださった。 そして座布団を出して都祁名産のお茶を立てて出してくださった。 東京から帰ってきたばかりの私にとって、田舎の良さをこれほど心にしみたことは無かった。
診察をしながら、ああこれが父の言っていた都祁の人々の心の温かさかと村の方々に尊敬の念を抱く様になった。 そんなわけで私もその後十年以上往診を続けていた。 何年か経って都祁村診療所が再開されて新任の先生に患者さんをお願いし、その後は多忙な事もあり都祁村のことは忘れかけていた。

それから二、三年経ったある日、患者さんとして診ていた嶋崎さんという方で、当時も都祁に行商にいっていた「三ちゃん」と父が呼んでいたおじさんが診察室に入ってきて、 「先生、都祁の窪のおばあが亡くなってな、葬式に行って帰りや。寂しいわ、ええおばあやった。あの人は人の喜びする人でな・・・」と言葉少なく想い出を語ってくれた。 私はそれまで「人の喜びをする」という言葉は知らなかった。その三ちゃんという行商の人がふと口にした不思議な言葉として私の心に刻まれた。

考えてみれば、人は自分や家族の喜びは心から喜ぶことができても、他人の喜び事を自分の事として喜ぶことはなかなかできにくいことである。 きっとそのおばあさんは他人である周りの人々の喜びを自分や家族と同じ温かい気持ちで喜んでおられたのであろうと私なりに想い巡らすことができた。 私が都祁村から来た患者さんに「窪のおばあさん亡くなられたそうですね」と言うとそろって「そうですね、ええ人やった、寂しいですわ」と返事が帰ってくるのであった。 私もかつて見ていた窪さんのいつも満ち足りた笑顔を思い出して本当に幸せな一生を送られた方であろうと思った。
そして今は亡くなられているが、三ちゃんからの一言である「人の喜びを喜びとする」という一言を窪のおばあさんの思い出と併せて私の自戒の詩に残すことにした。
最後に人の喜びを喜びとし、人に良い思い出を残して行った人に乾杯!

平成二十九年三月記

あとがき

この原稿を投稿して何日かして夜中に書庫を整理していてかつて読んだ新渡戸稲造の「武士道」の背文字が目に入り何ページかを読み返してみた、その中の「礼儀は優美な感性として表れる」という項に、日本人の心の底にある優美な感受性を紹介している文が目に入った。
すなわち「礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによってものごとを行うので、いつも優美な感受性として表れる。
「礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。」
この一文を目にして私は驚いた。回りくどい説明などいらない。 その心をそのまま生きておられた明治生まれのおばあさんが居られたということである。

自戒の詩

障害者施設でのコンサート「光の森コンサート」を続けてきて
― 左手のピアニスト鈴木笙太氏を招いて ―

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本内科こどもクリニック院長 岡本新悟

はじめに  

1年前から知的障害者施設「光の森」の健康管理を担当することになった。ある定期健診の診察が終わってからの事、ちょうどその日は私のフルートの発表会前日であったのでお母さん方に「明日発表会ですので少し聞いて下さい」といってディズニーの「星に願いを」など数曲演奏した。まだ習い始めて5年の拙い演奏に今まで大きな声を上げていた患者さんが一斉にシーンと聞きいってくれた。その瞬間私は音楽こそこの患者さん達と心を通い合わすことのできる言葉であると確信し、以来2カ月に1回のペースでプロの演奏家などを招いて「おかもと先生と楽しむ光の森コンサート」と称して続けている。この度9月2日、第6回のコンサートに私が治療を続けてきた左手のピアニスト鈴木笙太さんに演奏をお願いした。彼の演奏のすばらしさと障害を乗り越えて頑張ってきた姿に感動し涙する人もいた。この経験から医師として医療からだけでなく、自分が興味を抱く医療以外の面からも貢献できるということで小文を寄稿させて頂いた。

1.「障害者」という表現でいいのか  

表題にも記載したが「障害者」という言葉を使う時、一瞬心の奥でこの言葉でいいのかなと煩悶していたが、日本語には人格を傷つけない適切な表現が他に無い。英語ではhandicapped や disability という表現はあるが、会話の中では身体的な障害者を physically challenged person、知的障害をmentally challenged person という表現をつかう。それらの表現には障害を乗り越えて生きている勇者といった美しいイメージが込められているように思う。私も障害を有する患者さんと接しているうちに「障害者」という表現に強い違和感を感じるようになってきた。障害者と健常者の隔たりが様々な分野で狭まっている今、そろそろ日本語でも良い表現を考えてもよいのではと思っている。

2.「光の森」コンサート  

サンタクロースの衣装を着た私第2回はクリスマス・パーティーとして私がサンタクロースの衣装を着て1人1人と握手しながら手袋とマフラーをプレゼントし、その後「星に願いを」から「小さな世界」、グノーの「アベマリア」そしてお母さん方のために「愛の賛歌」などを演奏した。そして最後に患者さんとお母さんそして看護師さん達と全員で「手のひらに太陽を」を合唱して終わった。その間カラダを揺すって手を振ったり、音楽に合わせて「ワーアー」と声を挙げてくれる患者さんもあり、若者がライブを楽しんでいる様子と少しも変るところはなく私もプロの演奏家になった思いであった。しかし次にとなると私の少ないレパートリーも底をついてきたため、プロの演奏家にお願いし、私が前座を務めることにした。
第3回は小さいときからピアノを自由自在に引きこなした奈良県出身の天才少女で高校生のときに来日していたアメリカのバークリー音楽大学(ジャズでは世界一の大学)の教授に認められて奨学金をもらって入学し、4年後には大学を首席で卒業した女性ピアニスト上田麻美さんに演奏を頼むことにした。彼女は日本人離れしたリズム感と感性でジャズだけでなく、ビートルズの曲も交えて演奏してくれた。 ピアニスト上田麻美さんと演奏する私その時会場から、ときどき発する大きな声は彼らの言葉には出せないサインであることに気が付くことができた。
第4回は20歳のときに網膜色素変性症で光を失った盲目のギタリスト三辻雅典氏にお願いした。 彼はすばらしいボーカルで自作の曲も披露してくれた。 ギタリスト三辻雅典氏
第5回はピアノも弾けるソプラノ歌手、田口恭子さんにお願いした。 ソプラノ歌手田口恭子さん 背の高い美しい方で真っ白のロングの舞台衣装で歌ってもらった。 患者さん達も感動したように手振ったり拍手の様なしぐさをして喜びを表してくれた。コンサートが終わって皆で「手のひらで太陽を」を歌ったあとお母さん方は「今日は本当に贅沢な一日で した」と感謝の心を表し喜んで頂いた。

3.左手のピアニスト鈴木笙太さんのこと  

第6回のコンサートには私が担当する患者さんでもある鈴木笙太さんに来てもらった。

鈴木笙太君 彼は現在18歳で、4歳のときに脳腫瘍(頭蓋咽頭腫)で手術と放射線治療を受け、その後右半身の麻痺と高次脳障害そして下垂体機能低下症を伴うことになり周りの助けを借りてやっと生活できるような状態であった。しかし御両親の努力のおかげで右半身の麻痺が残るものの少しづつ身体の機能を取り戻しつつあった。そして尿崩症と下垂体機能低下症に対してホルモン治療のために神戸からお母さんの運転で遠路私のクリニックに通院することになった。最初拝見したときは話すことがやっとで受け答えの反応も悪く、身のこなしも危なっかしい様子で、顔がむくんだようであった。私の専門の知識を駆使して色々工夫をこらしてホルモンの補充量を調整した。私が治療を担当してから急速に元気になられ会話のスピードも速くなり症状を自分で訴えられるようになった。私は内分泌専門医であるから「下垂体機能低下症はホルモン治療を適切に行えば正常と同じ健康な生活が保障される」という信念をもっている。 その思いのとおり年ごとに元気になって、服用しているホルモン剤の処方なども自分で説明できるようになった。また最近左手でピアノを弾いて演奏会で演奏したことなども話してくれた。その話を聞いた時には一瞬本当かなと思ったが、お母さんから「You-tube」で紹介されていますので一度見てやって下さいと言われ、「鈴木笙太 左手のピアニスト」で検索すると演奏している映像が紹介されておりクリックするとカッチーニのアベマリアを弾いている彼の姿が現れた。まずはびっくりした。あの喋るのもたどたどしかった彼がこの様なすばらしく心に響く演奏ができることに唖然とした。私の様な素人がよけいな評をすることは避けたいが、単に曲を弾いているというのではなく流れるような美しい世界を表現しているのに胸を打たれ涙がでた。私の関与する医療以外の世界で並々ならぬ努力を続けてきて人々を感動させる左手のピアニストにまで成長されたのである。御両親ともピアノを弾かれる音楽一家でり、おそらく生まれもった才能があるのであろうが、右半身麻痺と高次脳障害を背負いながら努力によりそれを乗り越えプロと言ってよいレベルにまでたどり着いたまさに challenged person なのである。そして最近はいろんな演奏会や障害者施設からの依頼があって左手のピアニストとして演奏活動をつづけており、ときどきそのプログラムを見せて頂いている。プロフィールにはその通り「4歳のときに脳腫瘍を患い」と紹介されており多くの障害を持つ方々の励みになっている。

4.第6回光の森コンサートでの笙太さんと鈴木ファミリー  

彼のピアノ演奏を聴いて以来、ぜひこの光の森コンサートで演奏してもらいたいと考えており、9月2日神戸からはるばる来て頂いた。この度は笙太さんのピアノ演奏だけでなく、お父さんのピアノとギターそしてお母さんのヴォーカルといった鈴木ファミリー総出演によるコンサートとしてプログラムを組んだ。

ポンチョを着てケイナを演奏する私 最初に余興で私がメキシコで買ってきた大きなソンブレロとポンチョを着てケイナという民族楽器のたて笛を演奏し、その後フルートで「星に願いを」、グノーの「アベマリア」そして「愛の賛歌」を演奏して前座を締めくくった。私の演奏が終わって笙太さんがピアノの前で椅子と手の位置を合わせている間、お母さんに笙太さんが4歳の時に脳腫瘍を患ってからリハビリとホルモン補充を続けてきたいきさつを紹介して頂いた。また最初はリハビリのつもりで嫌々ながら両手で練習していたのを、ある日お母さんが「左手のピアニスト舘野泉さんの演奏をみて“これだ!”と気づいて笙太に左手のピアノ演奏を勧めてからは本人も楽しく弾けるようになりました。」と、そしてまた「この様に多くの人の前で演奏するようになるとは思いもよらないことでした」と紹介されていた。そして彼の演奏が始まった。

笙太君のピアノ演奏1 麻痺した右手をかばう様にして左手側を少し斜め前に座り、左手でピアノの鍵盤をそーと撫でるように移動させながら音を奏で始めた。まさに鍵盤の方から5本の指を誘っているように正確にそして美しいメロディーが奏でられるのであった。時には大きな声を上げていた患者さん達もシーンと彼の演奏に聴き入っていた。彼の演奏を一言で表現するならば「彼は単に左手で上手にピアノを弾く人ではなく、曲がもつ心の世界を表現できる芸術家」なのである。

笙太君のピアノ演奏2 シベリウスの「樅の木」と、カッチーニの「アベマリア」を続けて弾いてくれた。 アベマリアの最後の音に続く静かな余韻の間、誰一人声を出す人はなく溜息のあと大きな拍手であった。だれも彼がこれ程すばらしいピアノが弾けるとは思いもよらなかった様である。 彼の演奏が終わって続いてお父さんのピアノとお母さんのヴォーカルで2曲演奏してもらった。 音楽一家、鈴木ファミリーの強い絆と彼の才能をここまで伸ばすことができた御両親に皆は敬意を表するとともにうらやましくも思われた。そしてお母さんが「最近笙太がはっきり喋れるようにヴォイストレーニングの一環として歌を練習していますのでその成果を聴いてやって下さい」と紹介された。笙太君のお父さんとお母さん数年前に私が治療を担当し始めた時には彼が何を話そうとしているのかさえなかなか聞き取ることができなかった。しかしホルモン治療とリハビリを工夫されてからはどんどん喋れるようになり私も医師として1か月に1度彼の元気になって行く姿を診るのが楽しみになる程良くなってくれた。その彼が歌うというのである。

お父さんのギターで歌う笙太君 お父さんのギターでコブクロの「桜」を歌ってくれた。 お母さんの声に似た「通る声」でまだ少し滑舌がはっきりしないところはあるが、リズムと音程は完ぺきで歌の心を十分に伝える彼自身の歌の世界を披露してくれた。 笙太君と御両親と私この様に努力を重ねてすばらしい演奏と歌を披露してくれた彼は確かに右半身の麻痺と高次脳障害を有しているが、彼に「障害者」という言葉は当てはまらず、賞賛を込めて「challenged person」と呼びたい。そしてコンサートの最後は全員で「手のひらを太陽に」を合唱して終わった。 なごり惜しい感動的なコンサートで、最後は笙太君と御両親に盛大な拍手であった。



5.「光の森」のお母さん方に贈る歌を作詞・作曲して  

第1回目の私のフルート演奏からその後プロの演奏家も招いての「光の森」コンサートは今回で6回目となった。このコンサートを企画し、自分も演奏を担当して私は大きな発見をした。それは知的障害を持つ患者さん達が発する大きな声は言葉としては全く理解できないが、それはお母さんや周りの人に自分の気持ちを伝える彼ら自身の言葉であるということであった。演奏が始るとシーンと静かになり、感動的なところでは「アー」とか「ワーア」とか自分でも歌いたいのかメロディーに乗ってくるのである。それで私は彼らの言葉にならない声がお母さんに対する「ありがとう」の言葉であると感じ短い4部からなる詩を書いて曲をはめることにした。

「光の森」のお母さんにささげる歌 いくつか曲はできたがまだ歌詞にピッタリの曲は浮かんでこず進行中である。どなたかこの詞にぴったりの良いメロディーを作って頂ける方があれば有り難いと思っている。



おわりに

障害者施設でコンサートを続けている方は医師だけでなく、いろんな音楽グループもある。彼らがその様なコンサートに情熱を持って取り組んでいる気持ちは私も経験して初めて理解できた。障害を有する人々に喜んでもらえるだけでなく、私自身も心から楽しく、その場の皆と一体になった喜びがあるのである。私は医師としてこの様な活動を一つの使命として続けて行きたいと思う様になり、左手のピアニストである鈴木笙太氏をここに紹介し彼のこれからの活躍も見守って行きたいと思う。

(2016年9月10日記)

学校健診における成長障害のスクリーニング法
「WHAMES法」の実際

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本内科こどもクリニック
岡本新悟

 要 旨:医学の進歩は目覚ましく、遺伝子治療も現実のものとなり、山中教授のノーベル賞受賞でiPS細胞による臓器移植もまさに手の届くところまできたと言える。しかし一方で、日常臨床では単に発見が遅れたということだけで生涯知的、精神的あるいは身体的な障害を残す悲惨な例が後を絶たない。著者は成長障害の発見が遅れたために生涯ハンディーを背負って生きて行かねばならない若者の例を少なからず診て来た。最先端の医学の進歩の影で発見が遅れたということだけで当然受けられるべき医学の恩恵を受けられず悲嘆に暮れる青少年達がいるのである。ここでは特に成長障害の早期発見の必要性について実例を挙げて紹介し、著者が考案した学校健診におけるスクリーング法(WHAMES法)の実際について解説する。

Ⅰ)発見が遅れた成長障害を伴う内分泌疾患の例
著者は内科医であるため主に思春期年齢を過ぎた患者を担当しているため、発見した時点で既に治療時期を逃している例が少なくないことに気づいていた。まず典型的な2症例を紹介する。第1例は低身長で二次性徴の発来がないため相談に来た21歳の男性で過去の学校健診のデータから作成した成長曲線(図1)であり、小・中学校と著しい低身長であった。家族もいずれ背が伸びるであろうと楽観的に見ていて検査を受けさせることは無かった。検査の結果、成長ホルモン分泌不全性低身長と下垂体性の性腺機能低下症を伴う例で、原因は出生時に逆子で難産であったため下垂体茎が断裂しその後成長ホルモンと性腺刺激ホルモンの分泌障害を伴ったことが明らかになった。性腺刺激ホルモンにより治療を続け二次性徴は完成させることができたがすでに骨端線は閉鎖しており成長ホルモン治療の適応とはならず155cmの低身長である。

(図1)
WHAMES法


第2例は大腿骨頭滑り症で整形外科に入院してきた16歳の女性で、
担当医から成長障害の原因精査を依頼された。一目みて粘液水腫であることが判る顔貌であり、学校健診で測定された過去の身長と体重から成長曲線を作成すると、8歳頃から身長の伸びが低下しー5SDを下回る低身長であった(図2)。しかし学校側からは検査を受けるようには指示されておらず放置されていた。結局橋本病による甲状腺機能低下症で、診断後甲状腺ホルモンの補充療法を開始し粘液水腫様の特徴は消失し元気で知的にも改善した。しかし既に初潮を迎えていたため最終身長は145cm程度に止まった。
以上の2例を振り返ってみると学校健診で早期発見できていたなら治療効果も十分得られコンプレックスを抱くことなく生活できたであろうと思われる例である。同じような症例を少なからず経験しており学校健診の重要性を痛感した。

(図2)

WHAMES法

 

Ⅱ)発見がおくれる原因はどこにあるか
先に紹介した2例も含め成長障害を伴う内分泌疾患の発見が遅れる原因がどこにあるのか患者本人と両親に聞き取り調査をおこなったところ次のような回答が得られリストに挙がった。

成長障害を伴う内分泌疾患の発見が遅れる原因
(奈良県立医科大学内分泌外来通院患者 132名のアンケートより)
1.心配はしていたがどこに相談に行けば良いのか
分からなかった。              (102名)
2.いずれ他の子どもと同じように成長するものと
思って楽観的に見守っていた。        (69名)
3.家族の目には異常とは映らなかった。   ?? ?(39名)
4.本人、家族も生まれつきの体質で治療できない
と思っていた。               (6名)
5.以前、医師に異常なしと言われたために安心して
様子を見ていた。              (4名)

?以上のアンケート調査から生活を共にする両親の眼からは発見が困難であり、本人もどこに相談に行けばいいのか分からないというのが現状であった。そこため成長を客観的に評価し問題のある例をスクリーニングできるシステムが是非必要であると痛感した。そのような対象が学童期から思春期前後であることから学校健診のシステムに注目することになった。??????????

Ⅲ)学校健診におけるスクリーニングの重要性
現在行われている検診システムでは乳幼児健診以降は小・中学校で行われている学校健診が成長期の健康管理に当たっている。学校健診では毎年内科検診に尿検査や心電図検診が組み込まれ、併せて身体測定(身長と体重の測定)がなされ記録されている。しかし身長と体重の記録といた成長障害の早期診断に必須のデータを持ちながら学校健診の中にスクリーニングシステムが無いのである。著しい低身長や肥満の子どもがあってもそれは学年の平均を引き下げる例として受け取られ、当の個人は問題視されず放置されてしまっているのである。私が治療を担当した成長障害の多くは学校健診で見逃され治療開始が遅れた例が多く、学校健診に成長障害のスクリーニング法が必要であることを痛感した。

その眼で学校健診を見直してみると、成長障害のスクリーニングを行うに当たって学校健診は次のような利点を有しており、現在行われている学校健診に組み込むことができるスクリーニング法の開発と導入が必要であると考えた。

  成長障害のスクリーニングとしての学校健診の利点
(1)成長期にある児童・生徒の全員を対象としてスクリーニングできる。
(2)スクリーニングに必用なデータ(身体測定値、普段の健康状態)が記録として揃っている。
(3)同じ年齢の児童・生徒をグループとして観察できる。
(4)成長期の児童・生徒を経年的に観察できる。
(5)成長を観察できる専門スタッフ(養護教諭)が置かれている。

 以上の利点を考慮して学校健診で学校医が養護教諭の協力のもとに成長障害を発見するためのスクリーング法(WHAMES法)を考案し、実際の学校健診でその有用性を証明することができた。

Ⅳ)早期発見のためのスクリーニング法(WHAMES/ウェイムス法)の実際
学校健診の内科検診に組み込めるスクリーニング法を考案した1)、2)。WHAMES法は学校医が児童・生徒を診察する10数秒以内でチェックできる方法で、その結果を検診に陪席する養護教諭が名簿にその所見に合ったシンボルマークを記入する方法である。そして問題となった児童・生徒の成長曲線と普段の健康状態をもとに専門医に相談するためのカルテ(WHAMES相談票)を作成するという一連の流れである。そのチェック項目は学校健診でスクリーニングの対象とすべき成長障害が呈する多くの症状の中から尤度比法を用いて抽出した。ちなみにその上位5疾患は(1)成長ホルモン分泌不全性低身長、(2)脳腫瘍などよる下垂体機能低下症、(3)低ゴナドトロピン性性腺機能低下症、(4)甲状腺機能低下症、(5)甲状腺機能亢進症などである。その結果、Weight:肥満ややせ 、Height:低身長や高身長、Appearance:顔貌や体型が病的かどうか、Mentality:知的能力の低下:Emotion: 情緒の異常や行動異常、 Sexual development:性早熟や性発育の遅れについての6項目をとり上げ、検診時にその項目が瞬時に脳裏に浮かぶようにその頭文字をとってWHAMES(ウエイムス)法とした。そして内科検診では同じ年齢の児童・生徒をグループの中で観察しながら目の前の一人をWeight, Height, Appearance、Sexual development について10数秒以内に異常があるかどうかを判断することは可能である。そして異常があると思えばその項目の頭文字を使ったシンボルマーク(たとえば低身長であればH↓を、著しい肥満であればW↑)を陪席する養護教諭に名簿に記入させる。各項目についてのシンボルマークを(表1)に示す。そのマークは著しい異常の場合を大文字で、疑わしい場合を小文字で示している。そしてWeight, Height, Appearance, Sexual development のうち何らかの項目でスクリーニングされた場合には担任の教諭から普段の学校生活における情緒面や交友関係について(Emotion)、さらに学業成績の推移(Mentality)などを健康管理の参考にするために情報の提供を受けることになる。このシンボルマークを使う理由は成長期の過敏な心を傷つけることの無いように、またデータが散逸しても暗号化されているため個人情報の漏えいの心配が無いようにとの配慮からである。たとえば症例2で紹介した16歳の粘液水腫の女性が内科健診で学校医の前に立ったとき当然「著しい肥満で、背が低く、顔貌がむくんだようで病的な感じを受ける。」ことは瞬時に判断できる。そこでWHAMES法を使えば「W↑、H↑、A」のマークが付くことになる。担任の教諭からは「最近学業成績が落ち時に授業中居眠りをすることがある」との情報が得られ、「W↑、H↑、A、m」の様なマークとなる。そのような問題のある例を検診の場で見逃すことなく捉え早期に診断と治療に橋渡しをできる一次スクリーニング法として位置づけている。この様に一目見て所見を捉える方法を snap diagnosis と言って内分泌専門医が普段使っている診断法である。スクリーニング法の実際は拙著「WHAMES法」のガイドブック第Ⅱ版3)を参照されたい。

Ⅴ)スクリーニングで発見された例に対する診断と治療
奈良県ではWHAMES法でスクリーニングされ専門医の診察が必要とみなされた例については専門医に成長曲線とスクリーニングで問題になった項目とその理由を記載した「WHAMES相談票」を内分泌専門医に郵送し事前に判断を仰ぐことにしている。そして専門医は検査が必要として受診してきた児童・生徒に対してまず疑われる疾患の鑑別診断に必要な簡単な検査を行うことになる。-2SD(標準偏差)を下回る低身長であれば成長曲線を見て成長ホルモン分泌不全性低身なのか「おくて」なのか、下垂体機能低下症なのかを疑いながら手のレントゲン写真から骨年齢を測定する。骨年齢は暦の年齢とは異なり身体発育の状態を表現するので実年齢や身長年齢と比較して可能性のある疾患を絞って行くことになる。そして鑑別に挙げた疾患の診断に必要なホルモン検査として、GH, IGF-Ⅰと TSH, FT4, FT3及びLH, FSH, E2 or Testosterone を選択する。以上の検査でGHが低くIGF-Ⅰが100ng/ml以下の低値であれば成長ホルモン分泌不全性低身長の可能性が高くなり、成長ホルモン分泌負荷試験を行うことになる。またこれらのホルモン基礎値からは甲状腺機能低下症や下垂体機能低下症および性発育の程度なども鑑別可能である。さらに確定診断のためには各種負荷試験や頭部MRIなどの画像診断を行う場合もある。著者は奈良県下でのWHAMES法によるスクリーニングで要検査となった例の診断を担当しこの20年間で150名を超える成長ホルモン分泌不全性低身長や21名のターナー症候群、そしてカルマン症候群などの性腺機能低下症を20名近く発見し治療を続けている。もしこのスクリーニングがなされていなければ発見されなかったか、あるいは著しく発見が遅れた例と見なすことができ、学校健診におけるWHAMES法の有用性を20年の経験も含めて確認できたと言える。

Ⅵ)学校健診におけるWHAMES法の位置づけと今後
成長期は心身共に激動期であり、学校健診はその時期の成長と発達並びに健康状態をチェックできるたった一つの検診システムである。そのため学校健診で成長障害が見逃され発見が遅れたなら、治療時期を逃し適切な治療が受けられない患者さんが出てくることは明らかである。残念なことに現在の学校健診では身体測定は行われているがそのデータを成長障害の早期発見に繋げるためのスクリーニング法を欠いているのである。著者の考案したWHAMES法は現在行われている学校健診の内科検診にそのまま組み込むことができる方法であり、特別の財源を必要とすることなく学校医や養護教諭の熱意があれば十分機能できる方法である。このスクリーニング法が全国レベルで受け入れられ、人生を歩み始めたばかりの若者が成長障害の発見が遅れたことによって知的、精神的及び身体的なハンディーを背負う事の無いよう願うものである。

 おわりに
本稿は平成24年11月25日に開催された第61回近畿医師会連合学校医研究協議会総会の特別講演「学校健診で気になる子をどうするか」の原稿を基に加筆した。総会当日配布した「WHAMES法」ガイドブックと関連資料は希望があれば奈良県医師会から提供していただくことになっている。 最後にこのWHAMES法の開発と発展に当初から協力頂いたひかりクリニックの院長細川彰子先生と奈良県教育委員会の養護教諭の先生方並びにこのスクリーニング法を実際の学校健診に使用し早期発見に寄与して頂いた奈良県医師会の先生方に心より深謝する。

 参考資料:
1)岡本新悟、成長障害を伴う内分泌疾患のスクリーニング法(WHAMES法)の考案 -その学校健診における応用と有用性に 
関する検討―、奈良医学雑誌 40:95-105,1989
2)岡本新悟、辻井 正、内分泌疾患の早期発見へのアプローチ、
日本医事新報 3496:19-24,1991
3)岡本新悟:学校健診における成長障害のスクリーニング
WHAMES法(第Ⅱ版):奈良県発育異常研究会発行、2012/10/14

 

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「I am a doctor! I am a doctor!」
― 外国旅行中のバス事故で救助に当った経験からー

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
院長 岡本新悟

  医師が周りの人々に向かって、自分が医師であることを告知しなければならない事はめったにあるものではない。この夏、私は家族と外国旅行中にバス事故で瀕死の重傷を負った外国人女性を救助する場に遭遇し、I am a doctor! I am a doctor! と叫びながら医師としての責務を遂行するという貴重な経験をしたので会員の皆様にお役に立てればと報告する。

  事故を起こしたバスに乗り合わせた経緯についても説明を要するため、一部は私事で恐縮だが少し紙面をお借りしたい。

  そのバス事故は、この夏八月八日から十五日の約一週間、長女がロンドンでの留学を終えて帰国するのに合わせてヨーロッパを旅していた途中ベルギーのブリュッセルで起こった。私と妻そして長女、三女、四女の五人の旅行で、末の娘が名作「フランダースの犬」の主人公少年ネロが亡くなる最後の場面に出てくるルーベンスの絵を是非見たいというのでブリュッセルから列車でアントワープまで出かけた。アントワープのノートルダム大聖堂に掲げられているルーベンスの絵はキリストの誕生から、十字架に架けられ最後に天国に昇っていく三部作で圧巻であり、家族揃ってしばし大聖堂の小さな椅子に腰掛けて眺めていた。

  その大聖堂を後にしたのは午後一時頃で、その後に列車でブリュッセルまで戻って四時から市内観光を予定していた。大聖堂からもどる途中アントワープの駅近くのジュエリー店でたまたま素敵なルビーの入ったネックレスに目が留まり、家内に買ってやりたくて思案の末店に入った。しかし店員と値段の交渉に手間取り、店を出ようとしたが引き止められ、結局家内のよろこぶ表情に負けて買ってしまった。しかし強引な店員に仕方なく買わされたような感じを抱いて店を出たときには三十分ほど費やしてしまい、四時からのブリユッセルの観光に間に合わなくなってしまった。

  しかしこの三十分の遅れが、私たち家族を救ってくれたのであった。家内が市内観光のバスチケットを買い求めていたため、残念な思いをしながら諦めて列車に乗った。アントワープからブリュッセルまでは列車で三時間かかるのでブリュッセル中央駅に着いた時にはすでに四時を少し過ぎていた。しかしヨーロッパの乗り物の時刻のいい加減さを知っていた家内は、まだバスが出ていないかも知れないと言って、バス停まで走っていった。すると急いで来るようにと手招きしているのが見え、子供たちと一緒に走ってその二階建バスに飛び乗った。発車まえのバスは八割まで席が埋まっており、二階席の少し後ろに我々全員がやっと座ることができた。遅れて乗ったため二階席最前列の見晴らしのいい席に座れなかったが、まずはバスに乗れたことを喜んだ。バスは我々を待っていたかのようにすぐ発車した。

  しかし後で事故を起こすことになったこのバスは、日本の観光バスとは異なりシートは古く、石畳の道のせいもあって走り出すと案内のテープの声がかき消されるほどガタガタ大きな音を車内に響かせて走った。我々が乗った二階席の天井はビニールのホロで、天気の良いときは巻き上げてオープンカーで走るようになっていた。そのホロがいい加減な作りで汚いのでそっと手で触ってみたくらいである。そしてバスはこの夏伸びた街路樹の枝を天井に「ビシビシ」と当てながらお構いなしにスピードをだして走った。しかし中世から栄えた商業都市ブリュッセルの街は威風堂々としており、古い町並みの中に大聖堂の尖塔が彼らの文化を誇っているかの様であった。

  華美荘厳の道を突き進んだ西洋の美意識から、できる限り簡素な世界に美を求めた日本の建造物がどのように彼らの目に写るのかと流れ行く街並みを眺めていた瞬間、「ドーン・・・ガッチャーン」という音がバスの中に響き渡り、私の顔に空気の塊と一緒に細かい粉塵が突き刺さるように飛んできた。一瞬何が起こったのか分からなかったが、何か大きなものでバスが破壊されたかと思った。私は発作的にシートに身を埋めたが、数秒後バスは急停車した。一瞬の静寂の後、シートから顔を上げたところ、バスのフロントガラスが無くなって、ガラスが飛び散っているのが目に入った。しばらくして「ママー、ママー」と泣き叫ぶ子供の声の方を見ると、床に白い衣服を着た女性が倒れて横たわっているのが目に入った。そしてその横に直径十五センチ、長さ二メートル程の太い木がバスの座席に突き刺さっていた。

  一瞬にして状況は飲み込めた。バスが街路樹の木を巻き込んで二階のフロントガラスを突き破ってその木が飛び込んできたのである。そしてその木に直撃された女性が倒れているのである。しかし向こう向きでうつむいて倒れており全く動かない状態で、どの程度の怪我なのか全く分からなかった。

  私はそのとき「その木の直撃で死んでしまったのでは」と思った、次の瞬間、私は自分が医師であること、そしてこの場に私しか医師が居ないであろうと思ったときにはその女性の所に走りよっていた。そして左手で首を、右手を背中に入れて抱かえあげて私はギョッとした。それを見守っていた乗客もあまりの出血に「オー」と声をあげて後ずさりする程であった。ほとんど顔中血まみれで、右頸部が耳の下から鎖骨の高さまで大きく切れてパックリ傷口が開き、だらだらと血がでているのである。脈はあった。頸部の傷が大きいため右手で開いた傷口を合わせて素手で圧迫した。

  そのとき、私が何者か分からなかったからであろう、ご主人と思われる男性が私の手を振り解いて彼女の名前を叫びながらその女性を抱きかかえようとした。そこで私はとっさに「I am a doctor! I am a doctor!」 と叫んだ。何度も何度も「I am a doctor ! I am a doctor!」と叫びながら右手で止血し、「Give me a clean handkerchief! 」とバスの乗客に叫んだ。素手よりもましであろうと判断してそのテイシュペーパーを束にして圧迫した。そのとき横に居た若いイタリア人らしい女性が恐る恐る震える手で傷ついた女性の頭と体を抱えてくれた。その女性が以後介助役を担当してくれて処置がしやすくなった。

  余程たって、傷ついた女性がうっすらと目を開き、意識を取り戻してきた。彼女は、自分が血だらけで、抱きかかえられていることに気がつき、急に恐怖で体を振るわせた。そしてわたしの顔を見上げ何か分からないことをラテン系の言葉で訴えていることがわかった。私はここでも「I am a doctor! I am a doctor! 」と本人に告げた。しかし本人は小さな声で「 メデイチーノ? メデイチーノ?」と聞き返すだけであった。一瞬私はラテン系では「ドクトル・メイチイーノ」が医師の事と判断し、英語で「 I am a medical doctor! Medical doctor!」と叫んだ。するとその女性は「オー メデイチーノ メデイチーノ」と言って私の手を握り締めてきた。今でもその時の彼女の声と、私がメデイチーノと知って安心して私の手を握り締めた感じを覚えている。

傷は大きかったが、幸い太い動脈からの出血は無く、頚動脈は大丈夫であった。顔面は右の目の下から唇の上までパックリ開いており、だらだらと出血が続いた。しばらくするともう一人の白人男性が私に白いハンカチを手渡してくれた。それを頸部の傷に当て、顔面の傷はテイシュペーパーで押さえた。頚動脈が無事であった事と、止血により少しずつ出血が止まってきたことで、命は取り留めたなと内心ホッとした。そして他に傷や骨折は無いか、眼球は大丈夫かと握られている右手を無理やりほどいてチェックした。

  彼女に握られている手を解くと、恐怖に震えるように私の手にすがり付くのであった。そして私は「 Your carotid artery is safe, not damaged! Bleeding is improving! You are lucky! You are lucky! 」 と大きな声で叫んだ。本人は私の英語は分からなかったが、先程から介助してくれていたイタリア人女性が通訳してくれ、傷ついた女性が少しずつ安心して私にもたれかかってくるようであった。

  しかしこの間二十分程、なかなか救急車が来ないのには参った。本当にバスの運転手が連絡を取ったのか心配になって、「Call me Ambulance! Ambulance! 」と叫んだ。窓ガラスが無くなって大きくゆがんだフロントの窓から、時々外を見ては救急車の到着を今か今かと待った。バスはロータリーのセンターにある丸い建物の前で止まったため、その二階の窓にいる人々から私たちの一部始終が手に取るようであった。道路と建物の人だかりとバスの乗客の視線に囲まれて救助に当っていることに気がついたのはよほど時間がたってからであった。そして乗客の方を見ると家内が皆に状況を伝えてくれていた。そこで初めて自分の家族が大丈夫だったのかどうか一瞬不安が頭をよぎった。

  しばらくして救急車が到着し、救急隊が来たときには傷ついた彼女はかなり意識を回復し応答できるまでになっていた。まだ少しずつ出血してはいたが大きな出血はなくなっていた。救急隊員に対して、ここでも私は「 I am a doctor!  Injury is this one and this one.」と説明し、「This log hit her」と左前の座席に突き刺さっている木を指差した。今までの経過を知らない救急隊員と医師は最初から意識があったものと思い、また出血もある程度とまっているものだから、抱えあげて自分の足で歩かせ、狭い二階席からおろした。私も彼女を後ろから抱えながら階段を降りたが、彼女が地に足を付けて歩めたのにはびっくりした。そして救急車に乗せてから医師が全身をチェックしフランス語でなにやらOKらしいことを言った。私は「 If you need I will accompany with her. 」といったがnot necessary. ということで救急車を降りることになった。しかし救急隊の医師が彼女の事故を比較的軽く受け止めているようで心配であったため再び救急車に戻り She lost consciousness in a few minutes. Check her brain! といって再び救急車を降りた。

  五分程の後、救急車はけたたましくサイレンを鳴らして走り去った。そしてバスの方に戻ると、潰れたフロントを取り巻くように乗客と見物人で人だかりになっていた。そして目の前に私の処置の手助けをしてくれていた女性が呆然して立っており、ふと目が合い、彼女の必死の介助に感謝し両手で握手をした。彼女も事故に会った女性の横に座っており、もう少しでその木の直撃を受けるところだったのである。しばらくして私の両手と衣服が血まみれになっているのに気がつき、家内に「あなた血液に気をつけて」といわれるまで血液の危険には気が回らなかった。血液感染の怖さをいやと言うほど知っている自分にとって、迂闊ではあったがそれほど救助に必死だったのである。幸いバスが止まった前のセンターにトイレがあり、術前の手洗いの様に必死で血液を洗い流した。そして血のついた白いジャンパーを手にバスに戻ったときには別の観光バスが到着していた。

一緒に乗ってきた乗客達が、私に敬意を払って見守っている視線を感じた。わたしが Japanese Doctorであることはすでに皆に分かっており、メキシコから来た学生風の若い男性はたどたどしい日本語で「あなたはヒーローだ。私は日本が好きだ」といってくれた。彼の友達であろう女性が「あなたの行いに感激し手紙を書きたいと言っている。住所を教えて欲しい」と言われた。そして私たち家族と残った乗客は後から来た代わりのバスに乗って、市街観光を続けることになった。

  代わりのバスの二階席の最前列に座る人は無かった。ちょうど事故を起こしたバスと並んだとき、そのバスの天井を見て改めて驚いた。折れて飛び込んできた木のもう一方がバスのビニールのホロに突き刺さっているのである。我々だって危なかったことを思い知らされ、その後の市内観光はうわの空であった。家族が無事であったことに感謝し、しばし流れ行くブリュッセルの街並を呆然と眺めていた。そしてあの時私に「メデイチーノ、メデイチーノ」と言って私の手を握り締めてきた彼女の手は、ヒポクラテス以来、先輩医師達が築き上げてきた、医師への信頼の大きさを示すものであった。窓の外を眺めながら、世界の人々の医師に対する信頼の深さは、ここに見える大聖堂の荘厳さに決して劣るものではないと感じた。そして市内観光のバスを降りてホテルへの道すがら自分が無意識のうちにも傷ついた女性に駆け寄り医師としての責務を遂行できたことに内心満たされた気分であった。

  稿を終えるにあたり、医師にとってこのような経験は稀なことではあるが、海外での急を要する救助活動の折、周りの人々に自分が医師であることを容易に伝える手段があればと思われた。またあの時、清潔な白いハンカチを携えていたならと振り返った。今後海外旅行には白いハンカチに英語でドクターであることが分かる名刺を一枚入れて胸のポケットに忍ばせておきたい。 (以上は帰りの機中で記憶が覚めない内にとメモ書きしたものである。帰国後厚生労働省が「医師免許その他のライセンスをICカード化し、海外での災害援助活動で身分証明書として使えるようにしたい。」と発表した。問題は多いが医療のグローバル化が進む中で是非実現していただきたいと思った。)  

 

アルルのビーナス

「アルルのビーナス」 -岡本新悟

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災害時におけるホルモン剤補給支援の必要性と支援チームの結成
―3.11東日本大震災における支援活動の経験から―

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本内科こどもクリニック 院長 
岡本 新悟
早稲田大学 名誉教授
加納 貞彦
早稲田大学YMCAボランティアチーム
石戸 充、塩澤 壮吾、伊藤 英経、吉丸 響、本間 勝

はじめに

  あの甚大な被害を残した 3.11東日本大震災から2年が経過した。しかし平成24年12月時点で死者が15,879人、行方不明者が今のなお2,712人、そして故郷に戻れない避難者が34万人を超えている現在、過去の災害では済まされない多くの問題を抱えている。災害からの復興と共に、この大災害の経験を次世代に受け継ぎ、次に起こるであろう大災害の被害を最小限に食い止めるための方策が各界で取られている。震災発生当時、被災地からは遠く離れていても何らかの支援活動を行った人々は数え切れない。われわれはその時に行われた支援活動をもう一度振り返り、後世に残すべきノウハウとして次の大災害に備え、常にスタンバイさせておく必要がある。私は内分泌疾患を専門とする内科医であるが、震災当時ホルモン剤の不足で生命の危機に瀕する患者がある一定数あると考え、インターネットで呼びかけ、患者会や報道関係の情報ネットワーク支援を得て、最終的に早稲田大学YMCAのボランティアチームによって豪雪の中を緊急車両でデスモプレシンやコートリル、チラーヂンS等を東北の被災地に送り届けることができた。その時の一刻を争う一部始終は新聞やインターネットでも紹介され、その迅速な対応を高く評価された。 このようなホルモン剤の緊急補給支援を行ったのはわれわれのチームだけであったことから、この全国ネットのシステムを確固たる支援活動として後世に残すべく平成25年3月17日東京の日本赤十字看護大学広尾キャンパスで「災害対策を考える講演会」が開催され、私と早生大学YMCAのチームによる「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」の結成式が執り行われた。そして今後大災害時にこの支援チームの存在を思いだして頂き、現場でホルモン剤の緊急支援が必要となれば連絡を頂けるようここに小文を寄稿させて頂くことにした。

1)3.11東日本大震災でのホルモン剤補給支援活動を振り返って

  3.11東日本大震災は広域かつ甚大な被害を及ぼした史上まれな大災害であった。その情報は大地震発生から津波襲来によって豊かな東北の自然を丸呑みにして市街地の建造物や漁村が漁船と共に流されて行くテレビの映像が今でもわれわれの脳裏に焼き付いている。町全体が津波に飲み込まれ流されて行く映像を見て、そこにほとんど人影が見当たらないことから、被災地の人々がいち早く非難されたかと安堵した。しかしそれは全く予想外れで、津波に押し流されて行く瓦礫の下に避難できずに飲み込まれ、亡くなられた多くの方々が有ったのである。そして多くの方々が地震と津波さらには福島第一原発事故によって避難を余儀なくされたのであった。これらの情報から多くの人々が自分にとって何ができるかを考え、それぞれの立場でいち早く支援活動が開始された。国や行政の対応の遅さが非難されたことも有ったが、それを補う様に個人のボランティア活動家が被災地に救援に駆けつけた。 私はテレビで映しだされる大災害の映像からそれが自分の地域で起こったならばどのような事態が引き起こされるか想像した。
私のクリニックは内分泌・代謝疾患専門であることから、インスリン注射を続けている糖尿病患者が250名近くあり、さらに間脳・下垂体疾患などによる尿崩症や下垂体機能低下症でデスモプレシン、コートリルなどのホルモンの補充療法を続けている患者が50名以上、また甲状腺機能低下症でチラーヂンSを服用している患者が400名ある。小さなクリニックであるがこの施設が機能できなくなればたちまち多くの患者さんが生命の危機に瀕することになるであろうことは容易に想像できた。1日おいてその被害が驚くべき広域災害であること、そしてテレビで送られて来る避難所の映像から、何とか命を取り留めて避難して来られた方々や、まだこれらの避難施設にたどり着けない方々の中には必ずホルモン剤による補充療法を続けておられる方が一定数あると考えた。まず私の専門領域で緊急性を要するホルモン剤となると、糖尿病に対するインスリン製剤、さらに尿崩症に対するデスモプレシン、そして下垂体機能低下症や副腎機能不全にたいするコートリル、そして甲状腺機能低下症に対するチラーヂンSが挙げられる。幸いインスリンの補給支援は阪神淡路大震災の経験があり、日本糖尿病学会とインスリンメーカーの支援によりいち早く支援が開始され、その情報はテレビなどで紹介され安堵した。しかし生命に関わるデスモプレシンやコートリルそしてチラーヂンなどの補給を行っているという情報は全くなく、必ずある一定数の患者さんがあるはずとしてホルモン剤の補給支援が必要であると考えた。私はその旨を日本内分泌学会事務局にホルモン剤の補給支援の必要性をメールで送り、そのメールは全学会員にメーリングリストで送られた。同時に私が関係する脳腫瘍と下垂体機能低下症の患者会に補給ルートの確立を依頼し、全国ネットの患者会どうしのメーリングリストで支援ルートを模索して頂いた。一方私のチームはデスモプレシン20本、コートリル500錠、チラーヂンS1,000錠を緊急搬送用パッケージで用意し、被災地でのホルモン剤補給マニュアルを作成して待機した(写真①)。
その結果著者が発信した「ホルモン剤補給支援の必要性と協力依頼」のメール1), 3)は2日後に早稲田大学YMCAボランティアチームの加納貞彦教授に届き、用意したホルモン剤を奈良から東京まで私の長女、岡本奈香子が東京まで届け、ボランティアチームの隊員(石戸充、塩澤壮吾、伊藤英経、吉丸響、本間勝等と多くの後方支援の方々)が緊急車両で被災地に届けてくれることに成った(写真②)。それを聞いた多くの患者会の方々は大きな期待で豪雪の中を救援車両で必死に被災地に薬剤を届ける彼らの活動(写真③、④)の行方を見守っていた。そして2日後(3月17日)にはホルモン剤は災害対策本部のある東北大学医学部の伊藤貞嘉教授の許に届けられ、そこから避難所の必要とする患者さんに届けられた(写真⑤)。

 

 

2)支援活動からの教訓とメールリレーの再現

  この活動を振り返って次の点を今後の災害時のための教訓とし、いつ災害が起きても支援を必要とする人々に手を差し伸べることができるネットワークシステムを今後に残し維持する必要があると考えた。

1:被災地に何が必要かを自分の専門領域の知識を駆使し、具体化すること。
2:その中で被災地の人々にとって緊急性を要する支援とは何かを選択すること。
3:被災地の情報収集と被災地への支援ルートについての情報ネットワークを確立すること。
4:実際に現場に行って支援活動を行えるボランティアチームとの協力を確立すること。

  以上の4項目を満たして初めて災害時に機能できるチームとして活動できることが明らかになった。確かにこのネットワークは目に見えないものであるが、3.11 東日本大震災から得られた財産として後世に受け継いでいく責任があると考え、1年後平成24年3月11日の震災記念日に災害時ホルモン剤補給支援のメールリレーを再現すべく「3.11メールリレー:Okamoto- Kano」と称して著者から今後の支援活動の協力を呼び掛ける内容をメールに乗せて各患者会のメーリングリストで転送をお願いした。その結果翌日には早稲田大学YMCAの加納貞彦教授とボランティアチームに届き、いつどこからでもボランティアチームへの連絡が可能であることが確認できた。以上の震災時の経験と今回のメールリレーの再現の結果から、メーリングリストを有する患者会や有志のボランティアが実際ホルモン剤を被災地に届けてくれる早稲田大学のボランティアチームの協力の基に一つのチームとして今後災害時にホルモン剤の補給支援活動を行うことを計画した。

3)「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」の設立と今後の活動

  2年前の災害時のホルモン剤補給支援に参加した患者会や、福島第一原発事故の状況が不明であったために、若いボランティア隊員の健康被害を防止するために東京から仙台に直行せずに新潟回りとした早稲田大学のボランティアチームを一晩泊めて面倒を見てくれた篤志家など各地で協力してくれた方々との絆は固く、このチームを形有るものとして維持し今後の大災害に備える責任があると考えた。そのため私と早稲田大学YMCAの加納貞彦が発起人となって「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」を立ち上げることになった。
このチームの目的は“大災害で行政の活動が立ちあがるまでの間、被災地でホルモン剤を求める患者さん達が孤立した場合、患者さんに直接あるいは避難施設に必要なホルモン剤を早急に届ける。”という一点に限ることにした。私が内分泌・代謝疾患と糖尿病の専門医であることから情報を得たならば搬送の必要なホルモン剤とその必要量は災害の程度と範囲から推定できると考えられる。災害時の情報は今後本活動に協力を頂ける方のメーリングリスト(relay@okamoto-kano.jpn.org)を介して情報を収集し、早稲田大学YMCAボランティアチームの加納貞彦教授にその可否を問い、必要性を了解して頂ければ隊員ないしその協力者によってわれわれが用意した薬剤を搬送して頂けることになっている。私と実際の支援活動の指揮を摂って頂く加納貞彦教授の名前を付けて「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」と命名し、公的にも活動したいと考えている。そして平成25年3月17日に日本赤十字看護大学で「間脳下垂体疾患の災害対策を考える講演会」で私が「 間脳下垂体疾患に対するホルモン補充療法の実際から 災害時ホルモン剤補給支援チーム結成まで」 と題して講演し(写真⑥)(写真⑦)、その場でチーム発会式が行われた(写真⑧)。尚このチームの名称であるが、責任者としての私と加納貞彦教授の名前を「Okamoto-Kano」と付記している。今後このチームが引き継がれ責任者の世代交代を迎えたならば、担当責任者の名前に変更することをここに記しておきたい。

4)日本内分泌学会と日本小児内分泌学会への依頼

  3.11東日本大震災のとき著者からのメールを日本内分泌学会事務局の山口敏朗氏と、森昌朋理事長そして日本小児内分泌学会の横谷進理事長の取り計らいで学会員全員にメールが送信された。ある会員から陸前高田市の患者さんへのホルモン剤の送付を依頼された。この経験から、全国のどこかでホルモン剤の補給支援を必要とされる方の情報が内分泌学会員から得られることが明らかと成った。私共からの要請を受けて現在この二つの学会と成長科学協会でホルモン補給支援システムが検討されている。 学会の支援システムが整いわれわれのチームと協力できるなら今後大きな力を発揮できるものと考えている。 まずはわれわれの「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」がモデルケースとしてスタートし、同じ様な支援チームが拡充されることを願っている。

5)早稲田大学YMCAボランティアチームの活動との協力関係

  この支援活動で最も大きな役割を担って頂くのは実際に被災地にホルモン剤を届けるという困難な仕事を担当してくれる早稲田大学YMCAボランティアチームの方々である。この活動の位置づけとしてはむしろ早稲田大学YMCAの活動に組みこんで頂くという形でお願いすべきと考えている。また早稲田大学YMCAボランティアチームはこれまでも海外の被災地で活動されており、「ホルモン剤緊急補給支援」を国外の被災地にも広げるべきであるとの意見を早稲田大学ボランティアチームの石戸充氏から頂いている。海外では今まで被災地でホルモン剤の必要性については認識されていなかったことから、今回の経験を海外でも活かすことができればと考えている。国外の場合には薬剤の搬送や国外の医師法との関係で事前に解決しておかねばならない問題があるが、「住む地は異なれども、同朋の求めは同じ」と考えて今後われわれも協力し活動したいと考えている。

おわりに

  3.11東日本大震災でその災害の甚大さから何とかしなければという素朴な「助けあいの心」から始まった私が送った1通のメールが多くの人々の心に支えられ早稲田大学のボランティアチームに届き被災地へのホルモン剤の搬送が可能となった。振り返って著者自身の人生でこれ程うまく事が運んだ経験は無かった。これはまさかの時にはある目的を共有するならば「助け合いの心」で大きな力が発揮できることが証明された。またメーリングリストによる情報リレーの力も改めて知ることができた。この貴重な経験を埋もれさせる訳にはいかないと考え、また多くの方々の心の支えに対しても礼を尽くして報告する義務があると考えここに小文を投稿させて頂いた。

参考資料:
1)岡本新悟:「災害時ホルモン補給支援チーム」による被災地へのホルモン製剤の搬送と提供.:奈良県医師新報 711:12-15, 2011
2)岡本新悟:「災害時ホルモン補給支援チーム」に関する報告
第84回 日本内分泌学会学術総会抄録集
 日本内分泌学会誌:Vol. 87 No. 1 ,2011
3)命をつないだメール ―奈良の医師「薬補給ルート確立を」―
 産経新聞 平成23年5月11日号

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「チューリップと音楽を楽しむ、ふれあいコンサート」
によせて

 

岡本内科こどもクリニック院長
岡本 新悟

はじめに

このたび地域の方々の協力で、チューリップの咲き誇る園庭を背景に、当クリニックの駐車場に野外ステージを組んで「チューリップコンサート」を開催することになりました。 トランペット、キーボードそしてマリンバのプロ演奏家の前座として医師の立場で「音楽と健康」という小題で話す場を与えられました。私も小さいときから音楽に親しんできており、現在フルートを習い始めたところで、その「新たに楽器を始める」という音楽体験から健康との関係について私の考えをお話しします。

 

1)なぜ音楽は楽しいのか

われわれが快い(sense of well being) 、あるいは楽しい(happy)と感じる感情の起源をたどりますと、それらは進化の過程でわれわれが獲得した良い方向への誘いのメッセージと見ることができます。夕日を見て感激し、野原に咲き誇る美しい草花をみては心が躍る感情は原始の時代にきっと沢山の獲物が得られる喜びと結びついていたものと思われます。 また鳥のさえずりや川せせらぎ、そよ風に揺らぐ木の葉の音に心を奪われ聞き入ってしまうのも、きっとその「音の流れ」と「楽しいこと、嬉しいこと」が何万年という年月を経て、我々の脳に刷り込まれた結果とおもわれます。4億年の人類の進化の中で、きっと快く聞こえる音には危険のない安堵の心と、食べ物が豊かで満ち足りた世界がセットとして体験してき結果ではないかと考えられます。 そしてその快く聞こえる音の流れだけでも我々は満ち足りた感情を呼び起こすことができるようになって、さらにそれを研ぎ澄ましてきたものが、「音楽」として楽しんでいるものそのものでしょう。 今やわれわれは、周りの人々とともにその「音楽」を介して、演ずる者も聴く者も共に感情を共有して楽しめるようにまで築きあげて来た人類の英知の賜物と言えます。そう見れば音楽が楽しい理由、それは「命のゆりかご」だからと言えます。

 

2)健康とはなになのか

近年「健康」という言葉は気軽に使われていますが、その中身を説明することはなかなか難しい言葉です。 心身共に健康という表現を使う場合があり、その感じる場が身体そのものであり、また心そのものであると言えます。 健康とは決して「病気でない状態」ではありません。 私は健康とは「心身ともに快い状態で、生きる中に夢と希望が感じられる幸福な状態」と考えています。英語で healthy は元気な状態ですが、sense of well being and happy が日本語の健康に相当する表現であると考えています。 ですから健康は決してじっと待っていては得られない心身の状態で、そのような状態に自分を導くためには日ごろの心掛けと努力が必要となって来ます。 我々の大切な一日を「健康」に過ごすためには、心の持ち方、すなわち心の修養も大切であることは言うまでもありませんが、スポーツで身体を鍛えことも大切です。 そこでもうひとつ健康に過ごすための大事なものが「音楽を楽しむ事」なのです。先ほどの説明した様に、音楽は生命の起源からの「命のゆりかご」であり、健康に導くゴンドラなのです。 時間に追いまわされて生活している我々はもう一度自分の「健康」について思いを巡らせて、健康にとっていかに音楽大切かをもう一度見直してみる必要があるとおもいます。

 

3)音楽は健康に良いのか

最近リラクゼーションとして心の癒しに使うだけでなく、病める人の心の癒しを介して、病気の治療にも役立てようという試みが「音楽療法」として注目されています。そのような試みの記録はすでに古代エジプトの時代や旧約聖書にも記載があり、音楽がいかに健康にとって良い働きをするものかを物語っています。確かに快い音楽を聞かせることによって脳梗塞の後遺症の回復が早くなるとか、お年寄りで認知症の方が活き活きとしてきて、食慾も出てきて、中には寝たきりから歩けるようになったという例もあります。 ではなぜ音楽が病気の回復に役立つのかを医師の立場から説明しましょう。

 

4)音楽は健康にどうはたらくのか

われわれの身体はすでに楽器であるという考えがあります。
音楽はリズムとメロディーから成り立っており、心臓は毎分60回から80回の正確なリズムを刻んでおり、健康なときにはその拍動は自分には無意識に心安らかに感じています。一方呼吸も一定のリズムの中でゆったりとしてメロディーを奏でながら肺を収縮して酸素を取り込んでいます。 また私の専門の内分泌系というホルモンの調節についてもリズムとメロディーで成り立っています。ホルモンは episodic secretion とい間歇的なリズムに乗って分泌しており、さらに大きな日内変動とその時その時の身体の変化に応じたメロディーを奏でています。 われわれの体の臓器はリズムとメロディーをもって働いており全ての臓器がオーケストラのように指揮者のもとに美しい音楽を奏でていると見ることができます。

一方、音楽は音という媒体を介してわれわれの鼓膜を介し、また身体に直接振動を与えることによって脳にそのリズムとメロディーを伝えます。そしてその情報が体全体に行きわたり、脳だけでなく、楽器としてのわれわれの心臓や肺、血管、神経などにリズムとメロディーを共鳴させて「喜びと健康感」を呼び覚ますと言えます。 音楽と楽器としての体との共鳴こそが音楽による健康への誘いと言えます。

 

5)フルートを始めて感じたこと

われわれは視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚といった五感を持って生活の中の情報を脳と体に取り入れています。音楽を聴く事は聴覚からの情報で、一部は音の振動を肌で感じる触覚も関係しているでしょう。 われわれは、できるだけ多くの感覚からの刺激を維持することが大切です。音楽を聴くだけの音楽療法を「受動的音楽療法」と言います。一方自分で歌ったり、踊ったり、楽器を演奏したりする音楽療法を「能動的音楽療法」といい、その方が脳の活性化、ひいては脳の老化防止や認知症の治療に良いとされています。 認知症のお年寄りに手を叩いて一緒に歌ってもらうのも「能動的音楽療法」として有効です。

さて私も今までいろんな楽器に手を染めてきました。小学校の時にはハーモニカを高校では中古のオルガンを買ってきて我流で弾いたり、クラリネットにトライしたり、10年前には今日演奏に来てもらっています吉川先生にトランペットを習い、結局3年で挫折しております。 しかし今回は一生付き合って行ける楽器としてフルートを選んで毎週先生に習っております。 フルートを吹く事によって、目で楽譜を追い、耳で自分の音を聴き、指と唇で音の調節をし、そして味覚も嗅覚も総動員してフルートと格闘しています。楽器の演奏には五感の総動員が必要な様です。  

最後に昨年8月から始めたフルートですが、完成したプロの演奏の前に「初心者のフルート演奏」を余興として聴いて頂ければ幸いです。聴いてい頂いて、自分も何か楽器をやってみようと思われるか、半年もやってその程度かと思われるか、2分間の辛抱で「グノーのアベマリア」を聴いてください。 (完)

2010年3月31日記

 

2010年4月ふれあいコンサート 2010年4月ふれあいコンサート
  「音楽と健康」について話す内科医と司会の小児科医
2010年4月ふれあいコンサート チューリップ刈り
チューリップコンサート風景 チューリップを摘み取る参加者

2010年4月ふれあいコンサート

2010年4月ふれあいコンサート
「音楽と健康」について話す内科医と司会の小児科医

2010年4月ふれあいコンサート
チューリップコンサート風景

チューリップ刈り
チューリップを摘み取る参加者

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あなたが測ってもらった「ホルモン測定値」をどう読むか 
―患者さんが理解できるために―

岡本内科こどもクリニック
元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本新悟

1)はじめに
  最近医療機関で担当医から血液検査のデータの説明を受てそれをプリントアウトしてもらわれる事があると思います。しかし、主治医からのデータの説明が十分理解できず、不安を抱いて私のところに相談に来られることがしばしばあります。検査データには正常値という値の上限と下限が示されており、それに照らし合わせて異常かどうか判断できるように示されています。抹消血や生化学検査といういわゆる人間ドックなどでおなじみの肝機能検査やコレステロール、中性脂肪、血糖値、腎機能検査などは朝絶食で測定されておれば、そこに示されている正常値を超えておれば異常と判断できます。しかしホルモンの値はそこに示されている正常値と比較して正常域に有ってもそれが異常であるということが少なくありません。なぜならホルモンというものは大きな調節機構(フィードバック機構)の中で必要に応じて動くもの(ダイナミックな変動)で、その調節機構の中でホルモンの値を見なければ、「正常域に有るから異常なしと言えない」ことがしばしばあります。ですからホルモンの測定値は内分泌の専門医に必ず評価してもらってください。以下に簡単な例を挙げて説明します。ご自身が持っておられるデータをその目でご覧になると「なるほど」と納得していただけると思います。

2)上位からの刺激ホルモンとその下位の標的ホルモンの値の見かた
  本来ホルモンというものはわれわれの身体がいつもベストの状態に維持できる様に調節する指令塔とそれを実行に移す実行部隊でできています。指令塔である上位ホルモンとその指令をうけて働く実行部隊である標的内分泌ホルモンとの調節は、われわれの社会のシステムにそっくりで、上位からの指令を受けて下位ホルモンは分泌し、一方下位ホルモンが多くなりすぎますと上位の司令が抑制されて、血液中のホルモンの値がある一定範囲に維持(フィードバック機構)できる様になっています。一方ストレスや生命に危険な状態と司令部が感知しますと、その調節機構を超えて、司令部が大きな刺激を発令して、標的内分泌ホルモンを多量に分泌するようになります。われわれの生活は決して淡々としたものではなく、一日の中でも多くのストレスにさらされて生きています。血液中のホルモンを測定しようとする採血でさえ子供にとっては大きなストレスで、泣き叫ぶ子供のホルモンの値を正常値に照らし合わせて高値であっても異常とは言えません。むしろその様な状態で、血液中のACTH(副腎を刺激する下垂体からのホルモン)とコーチゾール(副腎皮質ホルモン)が高いことが正常であり、本来の調節がうまく働いてくれていると見るべきでしょう。
  次に最も頻繁に測定されるホルモンを挙げて簡単にそのデータの見かたを説明します。
  (1)甲状腺ホルモン値の見かた
  バセドウ病や橋本病(内科の「内分泌疾患の治療のために」を参照)、その他甲状腺の病気があるかどうかを調べるために甲状腺機能検査を行います。そのときTSHとFT3、FT4を測定します。知識が無ければ何のことか分かりませんが、TSH(甲状腺刺激ホルモン:Thyroid Stimulating Hormone )は下垂体という脳の中から分泌され、甲状腺ホルモンの分泌を刺激するホルモンで、FT3(フリーTスリー),FT4(フリーTフォー)はいずれも甲状腺から分泌される甲状腺ホルモンです。われわれ内分泌の専門医はまずFT3,FT4が正常域に有るかどうかを判断して、それからTHSがその値に相当する値かどうかという様に、調節がうまく行っているかどうかという目で評価します。例えばTSHが 2.4μU/ml と正常範囲にあり、FT4が0.34ng/dl と低ければ、これは甲状腺が悪いのではなく、下垂体からのTSHの分泌が悪いから結果的に甲状腺ホルモンの分泌が悪いと判断して、頭の中の下垂体に問題があるかどうか調べます。TSHだけからみますと、それは確かに正常範囲にありますから、TSHは正常と判断してしまいます。しかし甲状腺ホルモンのFT4の値から見ますと、「この程度FT4が低ければTSHは正常上限を超えるほど高くなくてはいけない」と判断して「TSHが正常域にあることが異常である」と判断するのです。これがホルモンのデータの読み方の基本なのです。
  またTHSが 0.03μU/ml と低値であり、FT3が 15pg/ml と高値であれば、これはどうも甲状腺から過剰にFT3が出ており、それだけ過剰な甲状腺ホルモンを分泌させるためにはTSHが高値であるはずである。しかし著しく低いと言うことはTSHとは異なる甲状腺を刺激する物質を持っている可能性があり、甲状腺刺激抗体(TSHレセプター抗体など)で甲状腺が刺激されて機能亢進となっているバセドウ病が疑われるということになります。
  (2)副腎皮質ホルモン(コーチゾール)とその刺激ホルモン(ACTH)の見かた
  時々私のクリニックにACTHとコーチゾールの値が著しく高いがどうしてかと担当医の紹介状を持参して相談に来られる方があります。2)の項で説明しました様に、ACTHとコーチゾールも調節系の中で見なければ判断を誤ります。ACTHとコーチゾールの値が高い病気には下垂体にACTHを分泌する腫瘍ができるクッシング病という病気があります。その病気かどうかの診断で、ACTHとコーチゾールの値を見るとき、採血した時の状態がどうであったかということが大切で、高熱や嘔吐、下痢を起こしているときに測定しますとひどいステレスでACTHは当然正常値の3倍から5倍、ときには10倍まで跳ね上がります。そしてその状態が改善すればすぐに正常域にもどります。
  ホルモンの測定値を評価するにはその測定の条件を考慮して読まなければ判断を誤るということで、先日も8歳のお子さんを連れてACTHとADH(抗利尿ホルモン)が著しく高いからと遠方から一泊泊まりで相談に来られました。お子さんは何ら問題の無い元気な子で、話によりますとひどい嘔吐による脱水で救急搬送された時に測定されたデータであり、それはその様な脱水の状態でなんとか身体が持ちこたえようとする本来の体の正常な反応であり、「ACTHとADHが高くて良かったですね」ということでお母様に納得して頂きました。ACTHが高い病気にはアジソン病という副腎皮質機能不全という病気がありますのでコーチゾールを測定してACTH[の値を再評価したことは当然です。
  (3)女性ホルモンと男性ホルモンの測定値をどう読むか
  最近婦人科や泌尿器科で血液中の女性ホルモンや男性ホルモンを測定され、そのデータを持参される方が時々あります。ご本人はそれをどの様に理解して良いのか、何かとてつもない病気が有るのではないか心配されていることがあります。
  卵巣から分泌される女性ホルモンであるエストラジオールは、脳の下垂体から分泌されるFSH(卵胞刺激ホルモン)とLH(黄体化ホルモン)という卵巣を刺激するホルモンで調節されており、一方、男性でもFSH、LHは女性の卵巣を刺激するという名前が着いていますが、睾丸に働いてテストステロンという男性ホルモンの分泌を調節しています。
  特に女性の場合月経がある場合にはその時期によってFSH、LHとエスタラジオールは連動しながら大きく変動します。更年期の女性では卵巣機能の低下によってエストラジオールは低下していますが、FSHとLHは卵巣を刺激しようと上昇します。ですからその女性の年齢と月経周期の時期によってデータを読むことが必要です。もし若い女性で月経が無くエストラジオールが低い場合、それだけで卵巣が悪いとは言い切れません。と言うのはその場合FSHとLHが高ければ、下垂体は卵巣の機能を何とか回復しようと頑張っているわけで、この様な方は当然卵巣に問題があることになります。一方男性の場合血液中のテストステロンは年齢によってことなり、思春期以降から30代までは高くなり40代からゆっくり低下していきます。年齢相当の正常値に照らし合わせて評価し、もしテストステロンの値が低くければ、FSHとLHの値をみて、それらが高ければ睾丸に原因があり、FSHとLHが低くければ下垂体からさらに上位の視床下部という上位司令部に問題があるとして脳をしらべます。

3)ホルモンの値を読むコツ
  私は医学部の学生さんに内分泌の講義で常に次の点を注意するように説明しています。
(1)測定された状態を詳細に調べてからホルモンの値を評価すること。
(2)血液中のホルモン濃度は日内変動や月経などで周期的に変動するために、どの時期に測定したかを考慮してデータを評価すること。
(3)ホルモンの調節に影響するような薬を飲んでいないか調べた上でデータを見ること。
とくに合成ステロイドを服用している場合にはACTHとコーチゾールが低く、一見下垂体に異常があるようなデータを示します。最近はステロイドが汎用されていますので学生さんには十分気をつけるように注意しています。
(4)必ず上位ホルモンと下位内分泌ホルモンの調節系の中で読むこと。
この点については「下位内分泌ホルモンの値から見て上位のホルモンの値が妥当 (reasonable)かどうかという視点で判断すると、学生さんにはしつこく説明しています。
(5)最後にその値が患者さんのデータと症状が一致するかどうか詳細に検討する。
この内容は患者さんにも理解のできる内容ですので是非ご自身が測定してもらったデータを「パズルを解くように」考えてください。われわれ内分泌を専門とする医師は、この様なホルモンのデータを「数学を解くように詳細に解析して」診断しているのです。ホルモンの種類はここの示した以外に驚くほど多くありますが、データを読む基本は同じです。この内容を参考に患者さんがご自身の病気やデータを理解して納得して治療に当たられたら幸いです。



岡本新悟 画 (2007年 入選作)
岡本新悟 画 (2007年 入選作)

   

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脳腫瘍術後のホルモン補充療法を受けておられる患者さんのために

脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の治療

―とくに成長期のホルモン補充療法と災害時の対応について―

-第V版-

岡本内科こどもクリニック院長
元奈良県立医科大学内分泌代謝内科 臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本新悟

はじめに
私は40年近く大学病院の内分泌外来を担当し、その間脳神経外科の先生から脳腫瘍術後の患者さんの紹介を受け、ホルモン補充療法を一手に引き受けてきました。そのため当時5,6歳だったお子さんが、今では成人して子どもを連れて来られることもあります。「下垂体機能低下症の患者さんが子どもを連れてくる」ということは、成長期からのホルモンの補充療法がうまく行ったという証明であり、そんな時私は心の中で「ホルモンの補充療法は芸術です」と言いたい気持ちです。脳腫瘍の進行度によって、すべての患者さんのホルモン治療が順調に行くとは限りませんが、脳腫瘍の手術ではトップクラスの腕の脳外科医に手術を受けられても、ホルモン治療がなおざりにされてはせっかくの素晴らしい手術の効果が生かせないことになります。私は脳外科医から紹介されてきた患者さんに対して、元気で幸せな生活を送っていただくために研究を重ね、学会で発表を続けてきました。これから治療を始められるお子さんをお持ちの親御さんにとって「いったいどのような治療が待っているのか、どのような効果があるのか」不安でいっぱいの事と思います。そのためホルモン補充療法の全体像を理解して頂くために、むしろ安心して治療を受けて頂くためにこの小冊子を作成しました。

さらに今回の第Ⅴ版では3.11東日本大震災の時にホルモン補充療法を続けておられる患者さんが治療を続けられなくなり生命に危険があることから、私共のチーム(災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano)が奈良から被災地にデスモプレシンやコートリルなどのホルモン剤を搬送した経験を生かし、今後災害時に患者さん自身がホルモン剤をどのように管理してホルモン補充療法を維持すればよいか、また緊急支援としてホルモン剤を被災地の避難施設におられる患者さんに届けるかについても記載しました。そして災害時にこの小冊子とホルモン剤を肌身離さず携帯して頂き難局を乗り切って頂きたいとの思いで災害時のための項を追加しました。

1. ホルモン補充療法の基本とこれからの医療

ホルモン補充療法はホルモンの分泌不全や先天的な欠損症に対して、必要とするホルモンをその人の年齢、性ならびにその人の生活状況に合わせて補う治療と言えます。ホルモンそのものは薬物ではなく本来われわれの体の中にあるものですからアレルギーや副作用は無いはずです。しかし補充するホルモンの量が多過ぎたり、少な過ぎたりするとそのホルモンの不足による症状や、過剰による副作用が出てきます。最近ではホルモンの構造を少し変えることによって本来のホルモンよりもさらに求める作用を強く発揮できるような製剤もできています。その場合われわれ医師は特別の配慮をもって副作用が無いかどうか慎重に見極めながら治療しています。  

現在ほとんどのホルモンは化学的に、あるいは遺伝子組み換え技術によって合成され製剤として使用可能になっています。それらの製剤を使うことによってホルモン分泌不全の患者さんを本来の健康な状態に回復させることは十分可能と言えます。しかしそれらのホルモン剤は経口や注射による補充となりますので、正常の血液中のホルモンの動態を真似ることはなかなか難しいと言えます。そのため内分泌を専門とする医師は工夫を重ねて何とか正常と同じ血液中の濃度を維持できるように治療を行っています。  

ここでは私が日ごろ行っている下垂体機能低下症の、とくに成長期の子どもさんのホルモンの補充療法を紹介し、少しでも参考になれば幸いです。よろしければこの小冊子を担当医に見せられ御意見を伺っていただいても結構です。私に足りないことがあればぜひその担当の先生からお教えを頂きたいと考えております。医療は医療スタッフと患者さん並びに家族が協力し合ってレベルアップしていくものです。わが子だけでなく、これから同じ病で悩まれる子どもさんの為にも医師に遠慮なく質問してください。それが私たち医師の研究への動機と情熱になるのです。

2. 成長期の脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の特徴
ホルモンの補充療法で最も難しく、しかし専門医にとって最もやりがいのある治療が成長期のホルモン補充療法であると言えます。成長と発達を時間軸で考えながら、同じ年齢の同級生にコンプレックスを抱くことなく二次性徴が発来し元気に学校生活を送ることができ、一人前に育ってくれることを願って治療を続けていくという気の長い、しかし責任の重い治療と言えます。成長期の脳腫瘍の場合、その多くは頭蓋咽頭腫や胚芽腫および神経膠腫によるもので、かなり広範に広がってしまってから発見されることが多く、尿崩症で発見された時には下垂体ホルモンのほとんどは分泌不全に陥っているのが特徴です。腫瘍に対する治療が優先され手術による摘出や化学療法あるいは放射線療法が行われるわけですが、それらの治療を受けやっと腫瘍の浸潤からの不安が遠のいた頃、他の子ども達とくらべてどうも元気がなく、成長も遅れがちで、今までの様に成績も思う様に伸びないことから、ホルモン治療の必要性に気付くというのがよくある経緯と言えます。成長期のホルモン補充療法は成人のホルモンの補充療法とは異なる点が多々あります。単にあるレベルを維持できれば良いというのではありません。成長期は成長しながら色々なことを体験し知識を身につけながら一人前になっていく大切な時期でもあります。また二次性徴が発来し、思春期に入って好きな相手と恋愛し結婚し家庭生活を営むという、一見当たり前のことがなかなか難しいことになります。この時期を単に身長の伸びや検査結果が正常を維持しているというだけのホルモン治療では決して満足できるものではありません。その子の将来を見据えた「元気で、はつらつとして、友達とも仲良く、勉強も目標と希望をもって取り組めるようなレベルの高いQOLを維持できる治療が必要」です。私はホルモンの補充療法で正常値を維持しているというのは最低限の条件で、さらにその子の生活全般を常に把握しながら最良とされる治療を提供するのがわれわれ専門医の務めであると考えています。

3. どのホルモン補充療法が子どものQOLに影響を及ぼすか
元気ではつらつとした生活できるかどうか(sense of well being)ということで、時間単位のコントロールが必要なのは尿崩症に対するデスモプレシン治療でしょう。デスモプレシンが切れてきますと急に多尿となり、水を欲しがることはお子さんを御覧なっていて日常経験されていることでしょう。その補充の巧拙(じょうずへた)は子どもの日常生活に影響を及ぼし、特に学校生活で尿意を我慢しなければならないという本人にとってはつらい思いの原因となります。次に日常生活に影響を及ぼすのがハイドロコーチゾン(コートリルR)の補充であると言えます。ハイドロコーチゾンが不足しますと元気が無くなり、風邪を引いてもなかなか回復しないということになります。このハイドロコーチゾンの補充が最も難解で、本人にとってどの程度の量が適量かを決める基準が無いといってもいいのです。だいたいの補充量の上限、下限はありますが現在担当している主治医の「さじ加減」によっているのが現状です。その次が甲状腺ホルモン(チラーヂンSR)で服用が途絶えても急に症状が現れるわけではありませんが、成長期特有のコントロールが必要となります。そして次に成長ホルモンです。成長ホルモン(GH)治療を脳腫瘍術後に行うかどうかについては腫瘍が残っているかどうかと関係する重大な問題がのこされています。最近、成人の成長ホルモン分泌不全症にGH治療が行われるようになってきました。いままでコートリルとチラーヂンSだけで治療されてきた成人の下垂体機能低下症の者さんにGH治療を行うことによって驚くほど元気になった患者さんを何人も経験をしています。成長期においては、成長を目的(身長を伸ばすこと)とするGH治療が行われますが、それもいわゆる成長ホルモンの全身の代謝に対する働きという点で目的に適った治療を行っていると言えます。そして思春期年齢に入ったときから行われる性腺治療(ゴナドトロピン療法または性ホルモン補充療法)も、心理面や活動性などに大きく影響する治療です。

ではデスモプレシン、コートリル、甲状腺ホルモン、GH治療、性腺治療の順に私が行っている治療を紹介します。その内容は日本内分泌学会や発育異常研究会、間脳下垂体研究会など今までに発表した内容の要約となっています。

4. 尿崩症に対するデスモプレシン治療
抗利尿ホルモンとは下垂体後葉という部分から分泌されるホルモンで、腎臓(集合管という尿細管に働く)に働いて水(医学的にはフリーウオーターと言われ理解されている)を再び血液中に取り込むことで体内の水を保持する働きをするホルモンです。視床下部にまで広がった脳腫瘍では、この抗利尿ホルモンの分泌が障害されるために体に必要な水が大量に尿中に失われることになり多尿(1日5リットルから8リットルに及ぶ)となります。その失われた水を補おうとして強い口渇感によって、がむしゃらに水を飲むことになります。その抗利尿ホルモンの分泌不全により多飲、多尿を伴う状態を尿崩症と言います。この尿崩症の治療に用いられる抗利尿ホルモン製剤がデスモプレシンで、本来の抗利尿ホルモンの構造(アミノ酸9個)の1つを変え、さらに1つのアミノ酸の構造の一部分を化学的に変更することで、本来の水を取り込む作用を強くし、さらに血管を収縮させて血圧を上昇させるという治療には不都合な作用を抑える工夫がなされた製剤です。我々はこの様な製剤をスーパー・アゴニストと呼んでおり、体内に本来あるホルモンの構造とは少し違うものとして理解しています。しかし治療には抜群の効果があり、尿崩症と診断されてもこのデスモプレシンがあれば安心と言えます。30年前はタンニン酸ピトレッシンという注射しかなかった事を思い出しますと隔世の感がします。いまでは若い内分泌専門医の先生はそのような悲惨な時代を御存じないと思います。

また最近、舌下で崩壊して粘膜から吸収させる錠剤「口腔内崩壊錠:ミニリンメルトROD錠」が開発され使用可能となっています。それについては別の項で解説します。

(1)デスモプレシン点鼻液とスプレーの差
さてこのデスモプレシンは点鼻製剤で、チューブの一方を口にくわえて鼻腔に吹き込むデスモプレシン点鼻液と、スプレー式で鼻粘膜に噴霧するデスモプレシンスプレーがあります。いずれも鼻粘膜にデスモプレシン溶液を付着させて鼻粘膜から吸収させる薬剤で、一定量を鼻粘膜に付着させるには少々コツがいります。製剤としては点鼻液の方が一定量を吸収させるという点では安定性があります。一方スプレーは噴霧範囲が広く、一部気管の方に漏れたり、吸気時に少しロスがあるために安定性に欠け、小さいお子さんには難しいことがあります。吸収の安定性に欠けるということはどういうことかと言いますと、デスモプレシンが切れて多尿になる時間帯が普段とずれてしまうという事です。学校生活では授業中に急に尿意を覚えてがまんしたり、急いでトイレに駆け込まなければならないという不快な思いをする事になります。スプレー製剤は外出や学校での追加用に持っていくのに好都合であるという利点もあります。そのためここでは点鼻液の使用法を基本として説明します。

(2)デスモプレシンの点鼻量の決定をどうするか
基本的には尿崩症の患者さんの場合、多飲多尿はあっても水を十分摂っている限り生命に危険はありません。そのためデスモプレシンの点鼻量の決定はいかに日常生活を多尿による苦痛から解放するかという点にあります。尿崩症の患者さんにとって、最も苦痛であるのは入眠中に起こる頻回の排尿とそれによる不眠であると言えます。そのためデスモプレシンを開始するとき、まず寝る1時間前頃に1回点鼻します。その点鼻に必要な量は尿崩症の程度によりますが、使い始めの頃は幾分効果が強くでますので、チューブについている目盛の 0.0125ml から開始し、夜間に排尿がなくなり朝に効果が無くなるような量まで試しながら増やしていきます。そして翌日の何時頃にデスモプレシンの効果が切れてくるかをその後の排尿回数と口渇感で推測します。安定してきますと寝前の0.025ml から0.05ml で翌朝まで効果があり、夜間に排尿することなく睡眠がとれます。そして翌朝多尿が始まる頃から再び0.025mlの点鼻を追加します。おそらく朝の1回の点鼻の効果は昼過ぎ頃には切れてきますので、その頃にもう1回追加することになります。治療開始から点鼻の量が決まるまで、何回か1日排尿プロフィール(何時に何mlの排尿があったか)を記録します。そしてデスモプレシン点鼻の時間とその効果を推測して、1日を通したデスモプレシン点鼻の配分を決めます。デスモプレシンが多すぎますと水過剰となって血液が薄められ低ナトリウム血症(治療によるSIADHという水中毒)を呈してきます。1日の尿量が1000 mlから1500 mlと幾分多めに設定して、デスモプレシンが切れるところを確認できるのが安全と言えます。私の診ている成長期の患者さんでは、寝前 0.05ml、朝食前 0.025ml、夕刻0.025ml の点鼻を続けている方が多いようです。中には朝0.025ml、寝前 0.025mlだけでうまく1日の尿量と排尿時間がコントロールできている方もあります。デスモプレシン点鼻中の1日排尿プロフィールを何度も記録して、入眠中や学校生活、時には旅行や運動会などの日程に合わせた量と点鼻の配分を調整し工夫するのがコツと言えます。

(3)デスモプレシン点鼻の注意と普段の心がけ
比較的少量で効果のある患者さんの場合、最小目盛である0.0125mlでも多い場合があります。その場合デスモプレシン点鼻液の原液を生理食塩液で希釈(1瓶の液を注射器で一定量吸い取って、生理食塩液と入れ換える)して使っています。希釈した点鼻液で0.025ml、から0.05ml の量で点鼻できる量に希釈しますが、希釈しすぎて1回点鼻量が多くなりますと鼻腔から口腔に流れてしまいますので、「鼻粘膜に付着させる適量」を考慮して作成することが大切です。自分でチューブから鼻腔に吹き込んだあと、鼻から息を吸い込まないで人差し指で鼻を側面から抑えて点鼻液を広く塗布させるのがコツです。

(4)口腔内崩壊錠:ミニリンメルトの使い方

ミニリンメルトRは「デスモプレシン酢酸塩水和物」で口腔内崩壊錠として造られています。ブリスターシートと呼ばれる密封シートから取り出してすぐに舌下に置いて待ちますとスーと溶けていきます。そのまま水や食べものを口に入れずに30分程がまんしてください。ミニリンメルトは急速に舌下の口腔粘膜から吸収されますので30分待てば十分量が吸収されます。しかし尿崩症ですから薬が切れて急に水を飲みたくなればミニリンメルトRを入れた舌下を舌で封をする様にしてストローで舌の上を水を転がす様に飲んでください。私が診ている患者さんもそのコツをつかんで今ではストローを使わないでミニリンメルトを舌下に収めながら上手に水を飲んでいます。  

本来デスモプレシン製剤ですから使用開始からの方法はデスモプレシン点鼻液と同じ要領となります。ミニリンメルトR1錠60μgがデスモプレシン点鼻液の 0.025mlに相当する様ですが個人差がありますので少量から開始する必要があります。この製剤はブリスターシートから取り出しますと急速に水分を吸って溶けて粘調になってしいます。ですから半錠や1/4錠をカッターで切って造る場合即座に密封シートに保存する必要があります。当院の薬剤師はそれを理解して上手に作成してくれています。

(5)デスモプレシン点鼻中の補液(点滴)の注意
デスモプレシンは体内に水を取り込むホルモンで、視床下部や下垂体の機能が正常なら水がオーバーになれば抗利尿ホルモンの分泌は抑制されるようになっています。しかし一定量のデスモプレシンが点鼻されている状態では、そこに点滴などで強制的に体内に水が入りますとオーバーとなった水が排出されず、体内の水過剰となることがあります。その様な状態をわれわれは「水中毒」と呼んでいます。水が体に過剰になりますと血液が薄められナトリウムの値が低くなり(低Na血症)、重症になりますと意識が朦朧となったり中にはケイレンに至る場合がります。そのため普段デスモプレシンを使用している場合、もし何らかの理由で他の医療機関で点滴を受ける場合があれば、必ず「デスモプレシンを使っています。点滴の量がオーバーになりますと低Na血症になるかもしれないと主治医から先生に伝えるように言われています。」と付け加えてください。

また視床下部や下垂体に障害があって尿崩症がなくても抗利尿ホルモンの分泌調整がうまく働いていない場合が隠れていることがあります。その場合、水がオーバーになっても抗利尿ホルモンの分泌が抑制されないため水過剰となり低Na血症が起こります(医療で引き起こされるSIADHと言う)ので、視床下部・下垂体に障害を有する場合には慎重に血液中のNaを測定して管理する必要があります。

ミニリンメルトRを使用している尿崩症の患者さんもこの注意については全く同じです。

この冊子のこのページを担当の先生にお見せするのも良いでしょう。

(6)渇中枢障害を伴う尿崩症の治療上の注意

下垂体より上位の視床下部レベルまで腫瘍や術後の変化がありますと水分が足りなくても「喉が渇いた」といった感覚が無くなることがあります。視床下部に渇中枢という喉が渇いた感じを促すセンサーが有るからです。もしそのセンサーに障害がありさらに抗利尿ホルモンの分泌が障害されますと、尿崩症があって水が不足しても水を飲もうとしないことになり、脱水と高ナトリウム血症で生命に危険な状態となります。この場合主治医の先生は一日の水分の摂取量とデスモプレシンの量を調節してくれますので水分調節についての説明を納得できるまで聞いて下さい。治療の基本は一定量のデスモプレシンの点鼻を続けながら水分量で身体の水分の収支を調節することで、定期的に血清ナトリウムを測定してデスモプレシンと水の量が正しいかチェックします。尿崩症で渇中枢障害を伴う場合が最もコントロールが難しいのですがコツを覚えればしめたものです。私は全く喉が渇いた感覚の無い尿崩症の子どもさんを治療していますが、お母さんが体重や体温そして尿量を表に記入しながら必要な水分量を割り出して現在は血清ナトリウムも正常維持できており、本人も一定量の水を飲むことの必要性を理解してくれています。

(7)デスモプレシンの予備の保存と災害時の注意
デスモプレシンを使用している患者さんは決して多くはありません。そのためデスモプレシンが急に無くなったり、紛失したりしますと手に入れることが困難で、まず置いているクリニックや薬局はほとんど無いと考えてください。総合病院を探してやっと手に入れることができるというものです。ですから自宅には必ず予備の1本を置いておくことと、旅行では2本別々のカバンに入れて持ち歩くことも大切です。海外旅行では特に注意が必要で、ゲートでのチェックのときにデスモプレシンであることと、その必要性を書いたドクターの診断症と証明書(英文で)を見せて通過することになります。また災害時には冷蔵庫の保存用を必ず持ち出すことも忘れないでください。

(8)ミニリンメルトRの予備と保存について

デスモプレシン点鼻液とは異なり災害時における備蓄や持ち出しについてはミニリンメルトRは明らかに勝っていると言えます。ブリスターシートに密封されている錠剤であるためコートリルやチラーヂンSと同じ扱いで保存から持ち出しまで可能と言えます。現在デスモプレシン点鼻液やスプレーを使用しておられる方もミニリンメルトRによる治療を経験しておくことが必要でしょう。そして普段使っているデスモプレシンの量と比較してその効果を体得しておいてください。それを普段の治療に使うのも結構ですが、災害時の備蓄用に20錠程度を持ち出し用のバッグの中に入れておき、定期的に新しい錠剤と入れ換えて災害時に備えてください。ミニリンメルトRがあれば災害時の保存としてはデスモプレシン点鼻液やスプレーは必要なくなり管理や持ち運びにも容易で安心して対応できるでしょう。

5.ハイドロコーチゾン(コートリルR)の補充療法について
コーチゾールは副腎皮質から分泌される生命維持に必須のホルモンで、各種のストレスを乗り越えられる様に身体をストレスに対応させるために働いてくれるホルモンです。その分泌を刺激し調節するのが下垂体から分泌される副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)で、さらに上位にある視床下部からのホルモン(CRH)で調節されています。例えば風邪で高熱が出た時にはそれをストレスとして下垂体からACTHが分泌され、それに呼応するように副腎皮質からコーチゾールを分泌し対応します。ですから視床下部から下垂体に腫瘍があってACTHの分泌が障害されている状態ではストレスに対応できないと言えます。普段平常時の血液中のACTH分泌パターンは早朝6時頃にピークをもった日内変動を有して分泌しています。そしてストレス時には普段の5倍から多いときには10倍近い分泌があり、それに呼応してコーチゾールが分泌されます。そのため平常時のハイドロコーチゾンの補充量の決定とストレス時の補充量の変更が子どもさんのQOLを大きく左右することになります。次にハイドロコーチゾンの製剤であるコートリルRの補充の実際について説明します。混乱を避けるために説明しておきますが、われわれ医師は実際副腎から分泌されるホルモンをコーチゾールと言い、その全く構造が同じ製剤の方をハイドロコーチゾンと習慣的に使っています。ですから担当医が「あなたの血液中のコーチゾールの値は00μg/dl ですよ」と説明して、「ではハイドロコーチゾン(あるいはコートリルR)を増やしましょう」という医師の説明には親御さんは不思議に思われるかもしれません。ハイドロコーチゾン、コーチゾール、コートリルR は同じホルモンと考えてください。

(1)平常時のコートリルの補充の基本的な考え
コートリルRはわれわれの副腎から分泌されているハイドロコーチゾンと全く同じ成分で1錠が10 mgでできています。コートリルもステロイド剤ですから薬剤の副作用の注意書にステロイド特有の副作用が列記されています。しかしこの説明は合成ステロイドを大量に使った場合のいわゆる薬理量の副作用であって、生理的な範囲での服用では全くそのような副作用はありません。むしろ正常の副腎機能の代わりをしてくれるステロイドと考えてください。そのためにコートリルの服用量と服用時間(1日の配分)が重要となります。1日の配分から説明しますが、正常の血中コーチゾールの推移は朝6時がピークで大体10μg/dl から15μg/dl の範囲にあり、その後徐々に低下して午後からは5μg/dl~10μg/dl を推移しています。その間に少しのストレスがあっても上昇します。ハイドロコーチゾンの補充は、まず1日の血中コーチゾールを模倣することが原則となります。そのため朝に多く、夕刻に少なく配分します。ある程度下垂体機能が残っており、血中のコーチゾールも少ないながら分泌されているような人ですと朝10 mgと夕5 mgのコートリルでカバーできますが、下垂体機能が完全に廃絶している方の場合は一日3回から4回に分けて服用することになります。何故ならコートリルの服用後の血中のコーチゾールは2時間後でピークになり、6時間では元のレベルにまで下ります。そのため朝起床時に10 mgを服用しても昼頃から元気が無くなり、夕方にはへとへとになって帰宅して、そのまま疲れて休むということになってしまいます。そのような患者さんは昼食後に5 mgでも服用しますと元気に学校で生活ができます。私は小児期から思春期頃のコートリルの補充は少なくとも3回あるいは4回に分けてオーバーにならないように配分するのが良いと考えています。私は今、マイクロポンプでハイドロコーチゾンを正常と同じ血中濃度を維持できるように持続注入する事で現在の経口による補充より良い効果が得られるのではないかと考えて検討中です。

(2)コートリルの補充量と配分をどう決めるか
下垂体機能低下症の患者さんのコートリルの補充量は大体10 mgから20 mgの範囲にあるとされており、小児内分泌専門医や内分泌内科の専門医もその範囲内でいろいろ工夫を加えながら量と配分を決めています。

元気が無い時には増やしたり、体重が増えてくると減らしたりといったようにはっきりしたデータに裏付けられたものではなく経験的な判断によっています。そこで私は下垂体腫瘍術後で下垂体機能が全く働かなくなった汎下垂体機能低下症の患者さんに協力してもらって、それぞれ朝15 mg、10 mg、5 mgを服用した時の血中のコーチゾールを30分ごとに測定して血中のコーチゾールの推移をグラフ化し、それを組み合わせることで正常のコーチゾールの分泌パターンを模倣する方法を考案しました。実際その方法で何人もの患者さんのコートリルの補充量を算出しますと、いかに個人差が大きいかが分かりました。ある患者さんは朝4 mg服用するだけで2時間後にはコーチゾールが20μg/dl近い値となりますが、他の患者さんでは8 mgでやっと15μg/dl 程度と個人差があります。そのためにこの方法は非常に有用で、現在は10 mgと5 mg服用後の血中コーチゾールのパターンを測定して、血中濃度が正常のパターンを模倣できる服用量を計算して1日必要量を配分しています。そして体重の増加や成長に応じて1年に1,2回現在服用中のコートリルの量で服用後の血中コーチゾールのパターンをチェックしています。さらにそのようなデータだけでなく体重の変化や全身倦怠感や本人の元気さ加減(sense of well being) も総合して判断しています。この方法は私が考案した「コートリル負荷試験」と称して他の先生方にも使ってもらっています。

(3)ストレス時やシックデイのコートリルの増量の仕方
副腎皮質ホルモンであるコーチゾールは本来「ストレス対応ホルモン」と称される通り、体に働くストレスに応じて視床下部がそのストレスの大きさを評価して下垂体に指令をおくり、必用な副腎皮質ホルモンを分泌できるように下垂体から副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)を分泌しています。下垂体機能低下症の場合、このACTHが分泌されないため、普段の必用量のコーチゾールの分泌ができないばかりでなく、ストレスに対応するコーチゾールの増量が不可能となっています。そのため患者さんは自分に必要な最少維持量を補うだけでなく、ストレスや感冒などのシックデイの状態に応じたコートリルの増量が必要となります。それぞれのストレスに対してどの程度のコートリルの増量が必要かは、なかなか判断が難しいところです。最も重要な点は「ストレスによる急性副腎不全に陥らない必要量を補充する」という事です。この急性副腎不全というのは、感染症や外傷などと言った何らかのストレス下で、そのストレスを乗り切るに必要なコーチゾールが不足することにより、強い倦怠感やショックにまで陥る状態と言えます。そしてその様な副腎不全に対する治療の考え方として、「一時的なハイドロコーチゾン補充のオーバーは決して体に悪いことではない」という事、しかし「過量が続けば感染症を長引かせる可能性がある」という点をも念頭に置いて追加量を決めています。私はストレスの程度をA、B、Cの3段階に分けて補充量を指導しています。  

レベルA(予知対応補充):前もって予知できるストレスで、その時のみ少量のコートリルを追加する場合、例えば運動会や器楽の発表会なのがあれば、その2時間前に普段の最少量を追加服用する。私は2 mgのコートリルを1単位として、そのストレスを本人や親御さんと相談して2 mgにするか4 mgにするか決めています。その都度上手く行ったかどうか、体調はどうであったかを後で記録しておき、今後どの程度を追加すればよいかの参考にします。  

レベルB(軽症シックデイ補充):感冒や発熱などで全身倦怠感を伴うときには普段の補充量を倍量にして服用させます。特に全身倦怠が強かったり、急な発熱時にはその上に2 mgあるいは4 mgを追加するように指導しています。  

レベルC:(重症シックデイ補充):同じ感冒でも下痢と嘔吐を伴う場合にはコートリルの吸収が不十分であるだけでなく、急速に副腎不全に陥る可能性があるため、一旦3倍量のコートリルを服用させて慎重に経過を観察し、その量でもどうしても回復しないようであれば病院に受診するように指導しています。病院でハイドロコーチゾンの点滴が必要か、あるいは入院治療が必要かの判断は親御さんには困難な事ですので、副腎不全が疑わしいときには適切に対応してくれる病院の担当医と連絡が取れるようにしておくことが必要です。感染症があっても普段の補充量の3倍程度は当然必要な量であり、感染を増悪させる心配はなく、その後の抗生剤による治療で十分管理できる量と言えます。この様な状態での副腎不全に対する治療に熟知している医療機関と普段から連携を取っておくことも大切です。私は患者さんに下垂体機能低下症でホルモンの補充量を記したカードを持たせており、それをみれば担当医はハイドロコーチゾンの点滴を行ってくれますし、私のクリニックに連絡が取れるようにしています

(4)急性副腎不全に対してわれわれ医師はどういう治療を行うか
上記のレベルCでも回復せず急性副腎不全として医療機関に送られてきた場合、われわれは次の様な治療を行います。ここでは脳腫瘍術後の下垂体機能低下症でコートリルを補充している子供さんが急性副腎不全で入院してきたと考えお話しします。その様なお子さんが副腎不全まで陥るという事は、普段補充しているコートリルでは不足したために引き起こされる事であって、その原因となるのは殆どが発熱や下痢、嘔吐などを伴う感染症が原因です。そのためわれわれ医師は普段どの様にコートリルを服用しているか、さらにコートリルを増量したかどうかということについて聞きます。そこで全身状態から急性副腎不全を「疑えば治療優先」ということになります。治療を優先ということは「確実な診断が得られなくても生命の危険を考えて治療を開始する」ということです。しかし診断は大切であり、その事態が急性副腎不全であったことを後で確認できるように(検査データが即座に入手できるとは限らないため)われわれは必要な点滴を開始する前に血液を採取しておきます。そしてその血液で血糖値や電解質などの一般検査だけでなく、コーチゾールやACTHも測定します。しかし下垂体機能低下症でコートリルを服用している場合には、その時のコーチゾールの値は診断にあまり役には立たず、またACTHは当然低値を示しますので参考程度となります。むしろ本人の自覚症状や全身状態、電解質などの方が参考になると言えます。結局点滴でハイドロコーチゾンを補充して30分から1時間以内に回復するかどうかが最も重要な証拠となります。

治療は静脈確保と言って点滴を入れるルートを確保します、そして採血の後そこから100mgのハイドロコーチゾン(製剤としてはソルコーテフやサクシゾン)を静脈注射してから、追って5%ブドウ糖と生理食塩液の同じ比率で入っている点滴を開始し、その中に200mgのハイドロコーチゾンを入れておきます。成人ならその500mlの点滴を約1時間以内で入れるようにして経過を診ます。急性副腎不全ならそれで1時間以内にかなり回復し、本人も「元気になってきた」と答えるようになります。そして状態をみてさらに500ml同じ点滴を追加することがありますが、ハイドロコーチゾンで300mg入れば十分回復する量と言えます。ハイドロコーチゾン100mgは普段のコートリルの服用量から考えますと、とてつもない多い量に見えますが、注射が必要な場合のハイドロコーチゾンの補充は経口剤の5倍から10倍の量が必要とされていますので、急性副腎不全のときの総量300mgは妥当な量と言えます。急性副腎不全の状態から回復してもその原因によっては入院が必要で、その誘因となった感染症の治療を続ける場合もあります。そのような急性副腎不全を呈した場合はその後のコートリルの補充を一旦増量してあらためて補充量を検討することになります。

(5)患者さんの自己採血によるコーチゾールの測定法の開発

― 当院の患者さんの協力により開発中(第90回日本内分泌学会で発表)―  

血液中のコーチゾールの測定は副腎不全の診断だけでなく、服用中のコートリルRの量が適切かどうかの判断にとっても必須の検査となります。しかし今はクリニックの外来での採血や入院での採血しかできませんので、ハイドロコーチゾン服用中の日常生活の中でコーチゾールがどのような値なのか、また副腎不全を疑う症状が起きた時の値がどうなのかを知ることは不可能と言えます。私たち医師も患者さんの日常生活の中でのコーチゾールの値が分かればもっと適切な治療ができると考えています。そこで私は糖尿病の患者さんが自己採血で血糖を測る時に使うランセットという専用の採血針を使って、患者さんに指先を穿刺して頂き、一滴の血液を使ってコーチゾールを測定する方法を確立しました。方法は患者さんがランセットで指先を穿刺して出た血液を専用の細いガラス管(ヘマトクリット管)に吸い取りそれに封をして試験管に入れ、自宅の冷蔵庫に保存しておいて翌日クリニックに届けてもらいます。それを私と共同研究者の前原佳代子先生(畿央大学教授)が3μlの少量でコーチゾールを測定する方法を開発し実際に患者さんのコートリルRの服用量の調整に使っています。この方法がさらに簡易化できるように研究を続けています。きっと数年以内には岡本式と称して皆様に手軽に利用して頂けるまで研究が進んでいると思いますのでご期待ください。

6. 甲状腺ホルモンの補充について
甲状腺ホルモンの血液中の半減期(服用を中止して血液中の甲状腺ホルモンの値が半分になる期間)は比較的は長く4,5日から1週間とされています。そのため1日服用が途切れても翌日服用を再開すれば殆ど症状は現れません。ただ1週間以上服用が途切れると全身倦怠感や眠気、ときにはぼんやりした状態になります。先に説明したコートリルの服用は時間単位で考慮する必要がありますが、甲状腺ホルモンの場合はそれほど急な対応は必要ありません。そのため採血のタイミングによらず、血液中の甲状腺ホルモンの値を参考に適切な量を補充することが可能なホルモンと言えます。

(1)血液中の甲状腺ホルモンの値をどのように治療に生かすか
われわれが患者さんの甲状腺機能検査を行うばあい、血液中の甲状腺ホルモン(FT3、FT4)と同時に下垂体から分泌される甲状腺刺激ホルモン(TSH)を測定して、その患者さんの血液中の甲状腺ホルモンが正常であるかを診断します。視床下部・下垂体系が正常である場合は甲状腺から分泌される甲状腺ホルモンが多いか、少ないかは視床下部で感知してTSHによって血液中の甲状腺ホルモンの値を正常レベルにセットできるようになっています。その人にとって甲状腺ホルモンの値が正常かどうかを判断するときに、まずわれわれはTSHが正常範囲に入っているかどうかから判断します。しかし脳腫瘍などで下垂体からのTSHの分泌が障害されますと、結果的に甲状腺ホルモンの分泌が低下します。そのような下垂体機能低下症に伴う甲状腺機能低下症の状態に甲状腺ホルモンを補充しますと当然血液中の甲状腺ホルモンは上昇してきます。私達は補充した甲状腺ホルモンが血液中でどの程度のレベルにあるかを測定して、必要量を満たしているかオーバーに成っていないかを判断します。下垂体機能が正常ならTSHの値を参考に補充量を決めるのですが、この場合TSHは参考にならず、結局甲状腺ホルモンを服用した状態での血液中の甲状腺ホルモンであるFT3,FT4の値が正常に成ったかどうかで判断します。しかしここで注意すべきことがあります。血液中の甲状腺ホルモンの正常域というのは多人数の正常人の血液中の甲状腺ホルモン値の±2標準偏差(±2SD)で上限下限を示しています(正常値は検査センターによって少し異なります)。多人数ですからその範囲は比較的広くFT4なら 0.8ng/dl ~1.9ng/dl の範囲とされています。FT3の場合は 2.2pg/ml~4.1pg/ml の範囲で上限と下限には倍近い差があることがわかります。ある患者さんに甲状腺ホルモンを補充して、この範囲に入っているとそれで良いというのは、ある一面正解かもしれません。しかしある個人の血液中の甲状腺ホルモンの値の変動域は比較的狭い範囲にあり、それをTSHが厳密に調節しています。ある患者さんの血液中の甲状腺ホルモンの値が正常範囲に入っているとしても、その個人にとっては低い場合、あるいは高い場合があるとみる必要があります。

そのためにまずは測定された甲状腺ホルモンの値が基準値の正常範囲に入っていることが第一条件ですが、さらにその値が患者さんにとって適当な値かどうかを改めて検討する必要があります。

(2)成長期における甲状腺ホルモンの補充の実際
血液中の甲状腺ホルモンの値は年齢によって異なるという事も大切です。検査センターの正常値は成人における血中濃度を提示しており、小児ではFT4は2.0ng/dlを超えており、FT3 は 4.0pg/ml を少し超えています。私は患者さんの顔貌に「むくんだ感じ」(粘液水腫といいます)があるかどうか、元気がなく「眠気を訴える」かどうか、体重が増加してきたかといった本人の症状を参考に、血液中のコレステロールの値も含めて甲状腺ホルモンの補充量を調整します。補充する甲状腺ホルモンの製品名はチラーヂンSRでサイロキシン(T4)そのものですから、われわれの甲状腺から分泌されるホルモンと同じものです。ですから補充量が適切である限り副作用は一切ありません。特に成長期のお子さんにはその年齢に見合った補充量が維持されているかを定期的に血液検査の結果を見ながら調節しています。

私は成長期の患者さんには血液中のFT3の値が 4.0pg/ml を少し超える程度を維持できるチラーヂンSの量を補充するように心掛けています。FT3 (体内でT4からつくられる)が 2.5pg/ml で正常として治療を受けていた患者さんに、チラーヂンSを増量してFT3を4.1pg/mlにセットしますと、粘液水腫様の顔貌が改善してすっきりした感じになった患者さんがあり、同じ様な患者さんを何人も経験しています。甲状腺ホルモンの補充量は幸い血中濃度がそのまま参考にできますので年齢相当かどうかと、その患者さんに適した量かどうかを患者さんの自覚症状も含めて決めることができます。

7. 成長ホルモン治療をどうするか

(1)脳腫瘍術後の成長ホルモン治療が有する問題について
成長ホルモン(GH:growth hormone)は視床下部・下垂体系が障害を受けますと最も障害を受けやすいホルモンと言えます。ですから脳腫瘍の術後特に視床下部・下垂体に障害が及びますとほとんどの子どもさんはGH分泌不全を伴い、身長の伸びが障害されます。ここで問題は、脳腫瘍が完全摘出できた場合と、出来なくて残存腫瘍がある場合その後のGH治療をどうするかが問題となります。さらにGH治療に関しては成長期における低身長に対する治療だけでなく、身長は正常範囲であっても、GH欠損による代謝異常を有する小児に対する治療をどうするかも問題となります。まず低身長の場合、身長が-2.5SD以下、あるいは最近2年間の身長の伸びがその年齢の身長の伸び率の-1.5SD以下(小児慢性特定疾患の基準)が対象になります。一応脳外科的に脳腫瘍(頭蓋咽頭腫や胚芽腫など)が寛解と判断された場合は2年間の観察期間を置いてGH治療に入って良いという了解が得られており、私もそれに則って治療をしています。寛解に入った頭蓋咽頭腫ではGH治療例と無治療例でのその後の腫瘍の再発に差はないというデータがあり治療してよいという見解が得られています。しかし残存腫瘍があって、その腫瘍が今後も完全摘出が困難な場合その腫瘍を抱えながらの生活となっていきます。その子の身長が伸びないことは親御さんにとって辛い事で、GH治療による腫瘍増大の潜在的危険性との板挟みで苦しむことになります。この様なお子さんにGH治療を行ってはいけないのかどうかははっきりしたデータはまだありません。  

一方身長は-2.5SDより低くなく、GH分泌負荷試験が無反応で、インスリン様成長因子(IGF-Ⅰ)が著しく低い患者さんも多く、その様な子どもさんは、成人に見られる成人成長ホルモン分泌不全症に特有のメタボリック・シンドローム様症状を呈し、元気がない子が多いようです。私は成人成長ホルモン分泌不全症に対してGH治療を行い、元気に生活できるように成った患者さんを多く診ております。そのため、成人でもそれ程の効果があるなら当然成長期の子どもさんのGH分泌不全にも代謝の改善を目的とした治療が必要であると考えて多くの子どもさんの治療も行っています。

(2)小児GH欠損に対する代謝の改善を目的としたGHの量とは
成人成長ホルモン分泌不全症(AGHD)に対しては、1日0.2mg ~0.4mg程度で十分効果があるため、私はIGF-Ⅰの値を参考にその範囲で使っています。低身長に対するGH治療の量の半分から1/3程度の少ない量と言えます。2年前にニューヨークで開催された国際小児内分泌学会(2009 LWEPES/ESPE 8th Joint Meeting)でもそのような患者さんにGH治療を行って非常に効果が得られたとする発表が何例も見られました。その時に使うGHの量は身長の伸びを目的とする量よりも格段に少ない量の 0.2 mg~0.4 mg /日が使われており、私も同じ量を使っています。現在私はそのような目的でGH治療を行っている子どもさんが6例あり、その効果が著しいのではっきり治療を行うべきという見解に立っています。また小児期の自分の健康感 sense of well being はその後の人生の自信につながり、成人よりもさらに積極的に使う必要があると考えております。この場合私はIGF-Ⅰを年齢相当に維持できる最少量と考えて決定しています。

(3) 成人の成長ホルモン分泌不全に対する治療

成長ホルモンは成長期に身長を伸ばすためだけに働くホルモンではありません。骨に対する作用だけでなく糖代謝や脂質代謝、さらには脳の働きにも影響を及ぼします。そのため現在成人でも重症のGH分泌不全に対してはGH治療を行います。いままで寝たきりのお年よりの方がGH治療を開始して見ちがえるように元気になられて自立された方も経験しています。GHの量は 0.2mg ~0.4 mg/dayで自己注射が認められています。

8. 性腺治療(ゴナドトロピン療法または性ホルモン補充療法)をどうするか
成長期の子どもさんが思春期を迎えて成人して性腺と二次性徴が完成することは非常に重要なことで、その人の人生のQOLが掛かっていると言っても過言ではありません。男性ホルモン、女性ホルモンはその効果が性腺に限られている様な誤解を受けますが、全身に作用して知的能力や心理的アクティビティーにも影響します。また筋力や骨塩量さらには脂質代謝などにも広く作用する全身作用型のホルモンです。ですから思春期のある年齢から正常の子どもの血中濃度を模倣する様に補充するのが良いのですが、身長の問題があり一般には後回しにされることが多い様です。しかし最終身長を骨年齢から推測し、量を調節して同い年の子どもに二次性徴が始まるころには少量からでもスタートするのが良いと考えています。その方法についていつからどのようなホルモンをどのような量で、何を指標に治療するかを解説します。

(1)いつから性腺治療を始めるか
正常の二次性徴の発来の時期は個人差が大きく、また女性と男性とでは異なり、女性で9歳頃から男性で10歳頃から始まります。血液検査で下垂体からの性腺刺激ホルモンであるゴナドトロピン(FSHがスタートを切り、追ってLHが上昇して来る)が上昇し始めその結果女性ホルモンであるエストラジオール(E2)や男性ホルモンであるテストステロン(Te)が少しですが上昇してきます。外見では女性では乳房が膨らんできて、その下に乳腺のしこりを触れます。しかし男性でははっきり外見上の変化は分かりませんが、精巣の大きさ(精巣容量)を測定しますと6mlから8mlと少し大きくなってきているのが分かります。実際外から二次性徴が始まって来ているなという感じが分かるのはその2年後位からで、11歳頃から女性でははっきり乳房が大きくなり私達がいうタンナー分類のⅡ度~Ⅲ度(乳房完成の丁度中間の大きさ)になり、追って初潮が始まります。男性では12歳頃からヒゲやニキビが現れ声変わりが始まります。正常の性発育を模倣することを理想とするなら、その年齢から性腺治療を開始するのが良いのですが、ほとんどの患者さんは成長ホルモン分泌不全を伴っており、低身長がその年齢では最も大きな問題となっています。ですから最終身長(成人身長)をできるだけ伸ばすように考えながら、性腺治療の時期を模索することになります。その最終身長を予測するのに最も信頼できるのが骨年齢で、左手(左利きなら右手)の手根骨と手指骨および尺骨、橈骨の骨頭部を診てアトラスにマッチさせて判断します。その骨年齢がその子の体の成熟度とほぼ一致していると見られます。そのため「おくて」の子は暦年齢が12歳でも骨年齢は10歳と遅れており、その子の発育度は10歳とみなして現在の身長や性発育の程度を判定することになります。ですからこれから性腺治療を予定している場合には、骨年齢を測定して最終身長を予測(予測の方法はTW-2法とか、Lenkoの方法など)して、最終身長を出来るだけ高く、そしてその子の骨年齢で女子なら11歳程度から男子なら12歳程度から少量のゴナドトロピンやE2製剤を開始します。開始しても1,2年は殆ど外見上変化が無い程度でしょう。この少量のゴナドトロピン療法の時期を私は導入期として重要であると考えています。と言いますのは男性ホルモンや女性ホルモンは性腺に働くだけでなく脳や体全身の代謝にも働いており、この年齢で脳に少量の男性ホルモンや女性ホルモンが働くことは思春期を迎え反抗期を迎え自立した成人となるのに大切な事であるからです。そのため私は性腺治療を3期にわけて考えています。

女性の場合には  
13歳から15歳までの導入期  
15歳から17歳までの増量期  
17歳以降からの維持療法期

男性の場合は女性の1歳遅れ位で上記のメニューをスタートします。  

以上はあくまで骨年齢での開始年齢で、もしある男性で暦年齢が13歳で骨年齢が11歳となりますとあと2年程待って15歳からのスタートになります。

性ホルモンは骨成熟を促し、身長の伸びを促進しながらも骨端線を閉鎖させる働きがあります。そのため性腺治療が遅れますと、体重の増加にも関わらず骨端線が閉じず負荷がかかって「大腿骨頭滑り症」を引き起こすことがあります。性腺治療が遅くなった場合には両側の大腿骨頭のX線撮影を行って整形外科医の専門医の意見を聞く事も大切です。

(2)どのような治療を行うか
視床下部・下垂体に障害がある性腺機能低下を低ゴナドトロピン性性腺機能低下症と呼んでいます。下垂体からのゴナドトロピンであるLH,FSHの分泌が低下あるいは欠ける為に、その刺激を受けるべき精巣や卵巣が発育できず、そこから分泌されるべきテストステロンやエストラジオールが分泌されず、精子や卵胞形成ができない状態です。すなわちこの子達の性腺は本来正常なはずで、刺激を受ければ正常の性腺が完成できることになります。それゆえ治療はゴナドトロピン療法というLH,FSHに相当するホルモンの補充が基本となります。ただし男性の場合と女性の場合は治療が少し異なります。  

まず男性に対するゴナドトロピン療法はLH作用を有するhCG(胎盤性ゴナドトロピン)とFSH作用のあるhMGやrhFSH(遺伝子組換によるヒトFHS製剤)などを注射します。その量は前述の導入期から増量期そして維持療法期と順に増量していき、その量は血中のテストステロンの値で調節します。理想的な治療を続ける事によって精子ができ子どもを造ることも十分可能です。私は今までに何人かの男性にこの治療を行って挙児を得ています。 ゴナドトロピン療法の実際については個人差がありますので以上が大体の考え方であると言えます。  

一方女性の場合、ゴナドトロピン療法を行うか、あるいは女性ホルモンだけのカウフマン療法だけで行うかは意見の分かれる処で、多くの小児内分泌専門医の先生方はカウフマン療法といってエストロゲン製剤とプロゲステロン製剤の組み合わせで治療を行われています。しかし問題はこのカウフマン療法は、卵巣を育てる治療ではなく、単に子宮内膜を月経周期と同じ反応を起こさせる治療であると言えます。カウフマン療法だけでも卵巣はある程度発育しますが、排卵する条件を造る治療とは言えません。そのため私は成長障害研究の第1人者であられた亡き岡田義昭先生とその様な女性の患者さんにゴナドトロピン療法を多数検討して、卵巣を発育維持できる程度のゴナドトロピンとカウフマン療法のコンビネーション治療を考案し、現在私はその方法で治療を行っております(Endocrinol Japon 39(1) 31-43, 1992 に掲載)。その時に使うゴナドトロピンの量は少量で、決して過剰による卵巣過剰刺激症候群(OHSS)を引き起こす様な量ではありません。そして実際結婚されて妊娠を希望されるようになれば婦人科の専門医にゴナドトロピン療法で排卵を誘発してもらって妊娠できるようにと考えています。まだその様な治療を続けて妊娠された女性を経験していませんが、そろそろこの治療を受けて結婚される女性が出てくるので楽しみにしています。

(3)いつまで続けるのか
ゴナドトロピン療法の目的は生殖能力といった挙児を得ることを目的とした性腺治療ですので、もしある程度年齢が進んで、挙児を希望しなくなりますと男性ではテストステロン治療のみで、女性ではカウフマン療法のみで治療を行います。男性の場合には年齢相当の血中テストステロン値を維持するために生涯補充が必要となります。女性の場合は60歳頃までで治療を終了可能となります。

9.災害時の心構えとその時のために  

平成23年3月11日の東日本大震災では多くの方が亡くなられ、同時に35万人以上の被災された方々が今尚不自由な生活を余儀なくされています。当時ホルモン補充療法を続けておられる方が被災されていることを知って私どものチーム(災害時ホルモン剤補給支援チーム:岡本)は早稲田大学YMCAボランティアチーム(加納貞彦教授と隊員)の協力を得て被災地にホルモン剤(デスモプレシン、コートリル及びチラーヂンS)を奈良から東京経由で東北の被災地に届けることができました。その経緯は新聞やインターネットのニュースで報道され、被災地へのホルモン剤の補給の重要性が認識されました(写真参照)。今後どの地域に大災害が起こるか分かりませんので、患者さんと家族がいつ災害に遭遇しても良いように普段からホルモン剤のプールをお願いします。ここでは一項を設けてその具体的な方法を述べます。

(1)どの程度のホルモン剤をプールしておくか。  

大災害で今回のような数県に渡る広範な被害が発生した場合、救助の手が差し伸べられるとしても発生初期にはホルモン剤の補給は殆ど期待できないといっても良いでしょう。救護班が避難所に到着してホルモン剤の必要性をキャッチして患者さんに薬剤を手渡すことができるまでには少なくとも1週間はかかると思われます。その最初の1週間はホルモン補充療法を続けている方にとっては生死を分ける1週間で、そのときにデスモプレシンやコートリルが無ければ脱水とショックに陥ることになります。そのためデスモプレシン、コートリル、チラーヂンS、ミニリンメルトR(デスモプレシン点鼻液あるいはスプレー)が生命維持に必須のホルモン剤ですのでそれらを最低2週間分プールしておく必要があります。

(2)どこにホルモン剤をキープしておくか。  

災害時に最も持ち出しやすい玄関近くの簡易保冷庫に保存しておくのが良いでしょう。キッチンの冷蔵庫では災害時には取りに行けなかったり、他の食品と一緒に散乱してしまう可能性があります。私はホルモン剤専用の小さな保冷庫(キャンプ用の小さなものが市販されている)を玄関の片隅に設置しておくことをお勧めします。特にデスモプレシンなら冷凍禁で10℃以下に保存できる保冷庫でそこにミニリンメルト、コートリルやチラーヂンSを保存しておき、1リットルのミネラルウオーター2本と一緒にキープしておくことです。玄関に置いてある簡易保冷庫に普段使用するホルモン剤を保管しながら順送りに使っていくのが薬剤の品質を保つ上でも良い方法といえます。

(3)災害時にはホルモン剤をどの様に持ち出すか  

 自宅か自宅近くに居た場合には何よりも先に簡易保冷庫のホルモン剤とミネラルウオーターを持ち出して下さい。普段からすぐ持ち出せるように透明の手提げ袋に入れておくことが大事です。「災害時は何が無くてもホルモン剤」です。デスモプレシン点鼻液やスプレーは10℃以下に保冷が原則ですが、できたら保冷剤を入れて持ち出すのが良いでしょう。そこまでしなくてもデスモプレシンは室温で1、2週間は安定ですので熱にさらされないよう注意してカバンの中に入れて逃げる事です。災害時の持ち出し用としてはデスモプレシンよりもミニリンメルトの方が有用です。そしてミニリンメルトだけでなくコートリルやチラーヂンSは錠剤ですからナイロンの袋に入れて水をかぶっても濡れない様な配慮が必要です。場合によっては水の中を歩いて逃げなければならないこともあり、錠剤が水に濡れて溶けてしまうこともありうることです。できれば職場にもワンセットキープしておいてください。被災して帰宅難民となってホルモン剤が手に入らなかった事も実際有った話です。

(4)災害時にホルモン剤を持ち出せなかったら  

自分がホルモン剤を服用している患者であることと、ホルモン剤が無ければ生命に関わる事を周囲に意思表示する必要があります。大きなカードに「私はデスモプレシン、コートリル、チラーヂンSが今すぐでも必要です。救護班に連絡して下さい!」と書いて支援を待ってください。

われわれの取り組み「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」に期待してください。  

東日本大震災の時に私共の「緊急時ホルモン剤補給支援チーム:岡本」と早稲田大学YMCAボランティアチーム(加納貞彦教授と隊員)の協力で被災地にホルモン剤を届けた経験を生かして、このたび新たに「災害時ホルモン剤緊急補給支援チーム:Okamoto-Kano」を結成しました。このチームは世界の被災地にもホルモン剤を届けることができるボランティアチームで患者会の方々からも期待されています。災害時の患者さんからのアクセスは私の医療相談窓口にお願いします。     

E-Mail: iryousoudan-ok@hotmail.co.jp

 

あとがき
この小冊子は現在脳腫瘍術後の下垂体機能低下症で治療を受けておられるお子さんと親御さんのために、ホルモンの補充療法とはどんなものなのかを分かって頂くために作成したものです。この小冊子が現在の担当医の先生の御目に触れることもあるかと思います。その場合私の治療法に対してご意見を頂ければありがたいと考えております。現在は成長期のホルモン補充療法についてのガイドラインが作成されておらず、できれば今後多くの内分泌専門医がお互いの経験を出し合いながら、どこでも最高の治療が受けられるようなガイドラインを作成できればと考えております。私の40年近い経験の要約として他の先生方の踏み台となれば幸いです。

謝辞
 このガイドブックを作成するに当たり、国立成育医療研究センター・内科系専門診療部長(現日本小児内分泌学会理事長)の横谷 進先生に御校閲を賜ると共に、貴重なご意見を頂いたことをここに明記し、先生の御指導とご厚意に心から深謝申し上げる次第です。

以上の謝辞の掲載をお願いしましたところ、先生から
「友人」と書いて下さればありがたいです。たとえば、次のような感じであれば ・「このガイドブックを作成するに当たり、友人である国立成育医療研究センター・内科系専門診療部長の横谷 進先生から、貴重な意見を頂きました。先生に心から深謝申し上げます。」  
とメールを頂きました。先生の温かいお人柄を示すエピソードとして紹介させて頂きました。

 

脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の治療 

脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の治療 
-特に成長期のホルモン補充療法と災害時の対応について- 
第V版:岡本新悟著

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脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の治療 

脳腫瘍術後の下垂体機能低下症の治療 
-特に成長期のホルモン補充療法について- :岡本新悟著

 

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これであなたはタバコが止められる!

岡本式禁煙法の紹介

 

1)私のタバコとの付き合いと禁煙へのトライ
  高校時代の同級生の木村君がタバコの吸い方を上手に教えてくれたおかげで私は18歳よりヘビースモーカーで1日30本は吸っていました。しかし県立医大に勤務中、40歳のある時私の恩師の辻井教授が「岡本君、禁煙できるか賭けるか!」と冗談半分に言われトライすることになりました。その時私は自分で岡本式禁煙法を工夫して禁煙に成功し、以来禁煙を続けております。しかし辻井教授はその時のことはお忘れのようで、あの頃よりさらにヘビーになられたようです。以来20年以上タバコを吸っておりませんが、私は禁煙して良かったと確信しております。なぜならタバコを吸っている時のあの頭のすっきりしない感じと、いつも吸うときの後ろめたさが不愉快であり、また子供が5人と多かったために、家族から白い眼で見られていたこともあり、今は頭も20才代のシャープさで、身体も朝から爽快で元気に患者さんの診察を続けております。ここでは禁煙に成功した者の立場から「この方法なら禁煙できるという岡本式禁煙法」を紹介します。

2)岡本式禁煙法を工夫するまで
  私は辻井教授との対戦のために何冊かの禁煙の方法の書かれた本を買ってきました。その中の1冊に「1時間禁煙できればあなたは禁煙できる(その本はもう私の手許にないので正確なタイトルでは無いかもしれません)」というタイトルの本で、禁煙した1時間の枡目を埋めていく方法でした。しかし枡目は陰気で私にはもうひとつ興味がなく、自分でカードを塗って行く方法に変えて、4日間で禁煙を完成するという改定版を作成しました。そして準備のために高価な美しい紙を買ってきて、半日掛かりで並べたカードの図をレタリング用のペンで描きました。今のようにパソコンの描画ソフトの無い時代ですのでそれはとっても心がこもっており、それを作ったときには禁煙の心構えができたような感じでした。そして図1のようなカードを4列に並べた表を作成しました。これが岡本式禁煙法の「1時間・4日カード表」です。ではこれを使ってどの様に禁煙を成功させるか次に述べましょう。

3)岡本式禁煙法カード表の使い方
  (1)岡本式カード表のダウンロードから
  カード表はパワーポイントで、A4版で作図しておりますのでそれをこの図1からダウンロードしてください。その時できるだけ高価で見栄えのする光沢紙か「スーパーファイン」でプリントアウトしてください。そしてそのカードを美しく塗っていくために赤色のフエルトペンを1本用意してください。そこで用具の準備は終わりですが、すぐに取りかからないでください。いったんそれを風呂敷に包んで禁煙開始の宣誓式用を行ってから始めます。

図1
岡本式カード

 (2)禁煙開始の宣誓式を行います
  なんでも初めが肝心です。学期初めに始業式があり、年の初めの正月のお祝いが有るように、宣誓式を行ってください。友達をいっぱい呼んで御馳走しても結構です。メールで今日から「岡本式禁煙法で禁煙します」と友人に宣誓しても結構です。そしてそのカードを眺めながら今日はゆっくり一服すってタバコとの別れを楽しんでください。そして惜別の心と戦いながら寝るまでに残りのタバコとライターを処分してください。そして今夜はゆっくり寝てください。

 (3)禁煙の開始
  さあ今朝から始めましょう。朝起きて今日は朝起きぬけの1本は我慢しましょう。そうしますと夜寝てからの1時からのカードと仕事に出かけるまでの7枚は塗れます。そして仕事始めの1本も我慢して、昼の食事まで1時間ごとに1枚づつ塗ってください。我慢ができるのなら12時になってからやおら風呂敷に包んで持ってきた岡本式のカード表を取り出して12のカードまで塗ってもらっても結構です。それで1日の半分が塗れたことになります。あとはその調子で1時間ごとに禁煙を続けるごとにカードを1枚塗ってください。1日はあっという間に過ぎます。そして寝る前に今日の成果を眺めて、今夜もぐっすり休んでください。翌日眼が覚めた時にはすでに7枚ぬれることになります。禁煙の成果を目の前で確認し自分を褒めてやることです。そこまで行きますと1本のタバコを吸って今までの成果を無駄にしたくないという心がでてきます。あと2日がんばればもうあなたはタバコがほしくなくなります。

 (4)4日間の禁煙が成功したら
  あなたはこのカードを当分肌身離さず持ち歩いてください。そしてタバコが欲しくなったときにその成果をみて、「1本飲むだけでこの努力を無駄にできるか」と心に言い聞かせてください。もちろんあなたの身の回りにタバコは有りませんから、買いに行くか、友達にもらうしかありませんね。もう少しの我慢です。実際4日のカードを書き終わった時点で成功する人がほとんどです。

 (5)せっかく成功したのにまた吸い始めた方に
  もうあなたに道はないという訳ではありません。その時には私に聞いてください。次の方法で成功した場合にはバングラデッシュの貧しい人のためのクリニック(ダッカの近くのガジプールという村にある) Okamoto General Clinic に寄付をお願いします。

サンタモニカのビーチコースでの力走?

サンタモニカのビーチコースでの力走?

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若さを保つためのWe Are Looking 体操

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本 新悟

はじめに
 
われわれにとっての健康維持に運動が大事であることは言うまでもありません。そのためにラジオ体操やストレッチ体操、ヨガなどあらゆる体操が工夫されています。身体を動かして筋肉を収縮させその刺激で身体だけでなく脳へ刺激を送って心身の活動性を高め、爽快感(sense of well being )を楽しんでいます。しかし今までの体操の多くは手足と胸部、腹部を中心とした運動で、医学の観点からは脊髄から直接軸索を出して支配している「脊髄神経」の領域の筋肉トレーニングに限られています。われわれの身体を支配する神経には脊髄神経のさらに脳から直接軸索を出して顔の運動や嚥下運動、さらに呼吸運動を支配する神経がありそれを「脳神経」と呼んでいます。脳神経は全部で12対あり、それぞれ支配する領域に応じて名前がついています。この脳神経の領域の筋は殆どが首から上の機能で、生命にかかわる機能と言っても言い過ぎではありません。一つを挙げますと、第ⅩⅡ脳神経である 舌下神経は舌の運動を司っています。この機能が脳梗塞などで低下しますと誤嚥を起こして窒息することもあります。私は長らく糖尿病の患者さんを診てきて、ときどきこの脳神経領域の障害で苦しまれる患者さんに出会うことがあります。そこでこの脳神経領域のトレーニング法の必要性を感じ、「We Are Looking 体操」を考案しました。そして今までに市民公開講座(県民フォーラムや桜井市公民館での講演)で紹介し、好評を頂きましたのでその概要を紹介することにしました。

Ⅰ)脳神経領域の神経とその働きとは
 脳神経とは脳から脊髄を経ることなく、大脳から延髄までの部分から直接その支配領域に軸索を伸ばして筋の収縮を司ったり、逆に末梢からの知覚を脳に伝える神経で、全部で12対あります。この神経は日常生活で最もわれわれが御世話に成っている神経と言っても良いでしょう。まずそれぞれの神経とその機能を簡単に説明します。
(1)第Ⅰ脳神経(嗅神経):
 臭いを伝える神経で、鼻腔上部の粘膜にある臭いを感じる細胞がこの神経を経て脳に臭いの情報を伝える。
(2)第Ⅱ脳神経(視神経):
 視覚を伝える神経で、網膜への光刺激による映像情報をこの神経を経て脳に伝える。
(3)第Ⅲ脳神経(動眼神経):
 眼球を動かす筋を支配する神経で、眼を上下、左右、斜め下に動かす外眼筋を刺激して眼球を動かしています。また瞳孔を収縮させる働きもあります。
(4)第Ⅳ脳神経(滑車神経):
 眼球を動かす筋で特に左右斜め上に眼球を動かす神経です。
(5)第Ⅴ脳神経(三叉神経):
 顔面や鼻、口、歯の知覚を感知するのと、咀嚼運動を司る運動神経がセットになった神経です。
(6)第Ⅵ脳神経(外転神経):
 眼球を動かす神経で、外直筋により眼球を外側に動かす神経です。
(7)第Ⅶ脳神経(顔面神経):
 顔面の特に表情筋の運動を司り、さらに舌の前2/3の味覚や涙腺、唾液腺の分泌を刺激する神経です。
(8)第Ⅷ脳神経(内耳神経):
 聴覚と平衡覚を司る神経です。
(9)第Ⅸ脳神経(舌咽神経):
 舌の後1/3の知覚と・味覚及び唾液腺の分泌を司る神経です。
(10)第Ⅹ脳神経(迷走神経):
 のどの知覚・運動、頚胸腹部の臓器を支配
(11)第ⅩⅠ脳神経(副神経)
 肩や首の周りの筋の運動を支配
(12)第ⅩⅡ脳神経(舌下神経)
 舌の運動

Ⅱ)We Are Looking 体操とは
 以上の脳神経の支配領域の筋をトレーニングすることにより、顔の皺が少なくなり、目の動きや表情がイキイキとしてきます。表:(若さを保つ We Are Looking 体操)に示す各項目の運動は12対の脳神経全ての運動を網羅しています。各項目を朝起きて洗面所に立って1から順番に10回から20回繰り返して下さい。もし昨日まで続けてきた We Are Looking 体操のいずれかがうまく行かなければ脳梗塞や顔面神経麻痺あるいは糖尿病性ニューロパチーによる末梢神経障害なども疑われますので診察を受けて下さい。
 ではWe Are Looking 体操のマニュアルを見ながら練習してください。ナースに体操のモデルを依頼しましたら、「そんなひどい顔を私にやらせるのですか」と真っ向から拒否され、あえなくわたしが恥を忍んでモデルを引き受けています。私も We Are Looking 体操を5年以上つづけているお陰で御覧頂きますように実年齢より10歳は若く見られます(本当です)。

 

We Are Looking 体操 (PDF 972KB)

モルダウ河の船上でスメタナのモルダウを演奏

モルダウ河の船上でスメタナのモルダウ(我が祖国より)を演奏

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第4回あしたのなら表彰式での講演記録:平成25年11月10日於:橿原文化会館
日々元気で若々しく生きるための脳の使い方
―内分泌専門医からのアドバイス―

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本内科こどもクリニック 岡本 新悟

はじめに
 
奈良県民に元気を与えた人を表彰する「あしたのなら表彰」の第4回表彰式で講演を依頼され「日々元気で若々しく生きるための脳の使い方」と題して私の専門の内分泌領域から「日頃の悩みや煩いを上手に処理して元気に生きる方法」について紹介した。その内容に多くの参加者の方から賛同を得たため、ここにその講演の要約を当日使用したスライド写真と共に掲載することにした。

1.脳の機能から見たストレス処理メカニズム

私がまだ若かりし頃、色々な悩みで煩悶していた時の詩を紹介する。

悩みのない人などおそらくは何処にもおられないため、この詩にきっと共感して頂けるところがあると思う。悩みさえなければどれほど楽しく毎日を生きていけるのにと思うのは私だけではないであろう。 翻って考えるに、われわれに脳という得体の知れないものがあがるから悩むのであって、これほどまでにわれわれを悩ませる脳とは一体何者なのか正体を知りたくもなる。考えてみれば 「人類の生存と幸せの為に進化してきたわれわれの脳は、いったいわれわれを本当に幸せにしてくれるのか。このあまりにも進化しすぎた脳の勝手な振る舞いにわれわれは翻弄されているのではないか。」と疑問を抱いてしまう。 近年医学の進歩で脳の機能や各部位の働きについて詳細に研究されてきており、その知識を使わない訳はないであろう。 孫子の兵法に「敵を知り、己を知れば 百戦して危うからず」とある様に、脳を知り その手の内と働きを知れば「悩を解き放つ術」があるのではないかと考えるのももっともなことである。悩によるストレスが有ったとしてもそれを上手に処理して身体に悪い影響を及ぼさないで軟着陸させる良い術はないのであろうか。

上に脳の解剖を示しているが、大脳の中心部下方に視床下部と下垂体という我々の精神的、身体的ストレスをホルモンによって処理するセンターがある。私自身この視床下部や下垂体に関わる病気を専門とする内科医で、その専門を「内分泌学」と称している。特に視床下部は外的または内的ストレスを処理して下垂体に指令を送る参謀本部とも言えるところで、映画「ゴッドファーザー」の最初の場面でゴッドファーザーが娘の結婚披露宴の時に色々な人から頼まれ事をするが、その依頼を誰に任せるかをきめるのがゴッドファーザーで、まさに視床下部の機能はストレスを処理する「ゴッドファーザー」なのである。

そして脳は神経細胞のシナップスという神経同士の接点でネットワークを形成しており、そのどこを通るかによって楽しいか、辛いか、時には大きな発見となるかが決まると言ってもよい。この脳神経のネットワークを介して上に示す様に、外的あるいは内的なストレスを処理し、最終的には視床下部へ種々の情報を送ることになる。そして視床下部ではそのストレスに対してどのように身体的な対応をすべきかを決めてさらに下位の神経系(自律神経系)と下垂体からのホルモン分泌(内分泌系)によって対応していると言える。その中でもストレスとエマージェンシーに対応しては視床下部は下垂体と自律神経系に刺激を送ってそれぞれ下垂体からは副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)と副腎髄質からアドレナリンを分泌させてストレスに対応している。しかしこのACTHにより刺激を受け副腎皮質から分泌されるコルチゾールと自律神経終末と副腎髄質から分泌されるアドレナリはまさにストレスに対応するために必要なホルモンであるが作用が強すぎると下に示す様に、長い間に色々な障害が身体にでてくることになる。

 

結局ストレスを上手に処理できなくて視床下部や下垂体に大きな負担を掛けることによってコーチゾールとアドレナリンの過剰状態となり、その結果、血糖上昇から糖尿病に、血中脂質の上昇により脂質異常症に、血管収縮から高血圧症に、さらに消化器能の低下で胃潰瘍や免疫能の低下から癌の発生率が高まったりする。また性ホルモン分泌の低下や成長ホルモン分泌の低下から活力の低下やメタボリックシンドロームになりやすくなる。 そのように見て行くと身体にとって過剰なストレスは動脈硬化から老化への一本道であると言える。 しかしこのストレスをどう処理するかが問題で、人それぞれかかえている問題はさまざまであり一筋縄ではいかない。 見方によってはストレスをどう処理するかはその人の性格であり人格でもあるとも言える。 「短気な人とは」ストレスに対応する脳神経ネットワークが少なく、抑制ニューロンが発達していない、いわゆる「すぐキレる」というタイプであろう。 また「傲慢な人とは」自己中心の脳神経ネットワークが過剰に発達しており、己を見つめる自己客観視ニューロンに乏しいと言える。 さらに「恨み心とは」脳神経ネットワークの同じ悪い回路をいつまでも  旋回して、浄化ネットワークのニューロンが乏しい人である。ところでお前はどうかと言われると決して他人ごとではなく、最初に紹介した詩のなかの自分の様に何と情けない優柔不断な自分であることかと自己嫌悪に陥るのが常である。 しかしストレスを上手に処理する温厚な人格者とは脳神経ネットワークが豊富で多くの回路を持っており、どのような難しいストレスにもそれをバランスよく処理してそのストレスによる影響を視床下部に軟着陸できる人と言えるであろう。その様なひとは動脈硬化になりにくく結果長生きもする。 しかし「持って生まれた性格はどうしようもない」言われるかもしれないが、幸い脳は年をとっても努力によって新たな回路を獲得でき、われわれは単に自分からその努力を放棄しているだけであって、温厚で立派な人格は努力で手に入れられるはずなのである。この温厚で立派な人格は周りの人にとって好ましいだけでなく自身もいきいきとして楽しいのである。

2.偉大な先人の教訓からストレス処理の原理まで

ストレスをどう処理するかというなかで最も参考になるのは、偉大な先人たち特に歴史上の著名人、あるいは戦国武将さらには偉大な仕事を成し遂げた人々の知恵や名言、遺訓であろう。彼らはわれわれが想像を絶する困難に遭遇しながらも、その大きな危機やストレスを上手に乗り越えてきた偉大な人々であり、彼らの知恵や名言はまさにストレスの上手な乗り切り方を教えていると言える。その中にはわれわれを苦悩から救ってくれる言葉がきら星のごとくあり、それらはストレスを上手く処理して視床下部にそのストレスを神経ネットワークを介して軟着陸させる一つの「好ましい思考回路例」とみて良い。これらの参考にすべき思考回路を詳しく調査してストレスに対して偉人達はどのように考えたか、これらの名言や遺訓の重要なキーワードを統計処理してなにが最も頻度が高いか検討することにした。この様な統計処理は医学論文作成などでよく使われる方法でその結論は客観性があり説得力がある。統計処理に使ったそれらの名言、遺訓の一部を下に紹介している。

これらは偉人達が自分に降りかかる大きなストレスを上手に処理するための心の有り方を「この様にありたいと願った」ストレス処理法であると言える。さてここで行った統計処理とは、それぞれの名言に含まれるキーワードの重要度を5段階評価してその頻度を集計している。特に夏目漱石の「則天去私」や、宮沢賢治の「人の喜びを喜びとする」という言葉は「天に則す」や「己を去る」「ひとの為に生きる」の5段階評価の5に分類している。結局人の生き方に関する何百という名言や遺訓を取捨選択し、重み付をして統計処理すると、下に示す3項目に行き着くことになる。 即ち偉大な先人達がストレスや悩みを上手に処理して「日々元気で自信に満ちて生き抜いた」脳の使い方は結局この3原則に行き着くことになる。その3原則をさらに短く要約すると下に示すように「天に則し、己を去り、人の為に生きる」という事となる。

ではどのようにすれば己を去ることができるのか、またどのようにすれば天に則していきることができるのか漱石の書物を全て読んだわけではないが、その中に「則天去私」に至る方法は見当らない。しかし彼はストレスを上手に処理できた最高の状態をこの言葉で示していると言える。ところで私自身どのような状態にある時がもっともこの3項目を満たしているかとじっと心に問うてみたところやはり医師である自分にとっては「患者さんを前にして何とか病気を治したいと努力しているときで、その時は自分自身はなく天職と感じて心の中は充実してイキイキしている」。

その経験からも  「人は人との関わりの中でしか生きていけない」わけで、 この3原則に統計処理した結果の第4位の「人を愛し」という言葉でくくると「人を愛し、人の為に生きれば、己を去り、天に則した生き方ができる」という結論になる。結局偉大な故人の遺訓や名言を統計処理してそのエッセンスを抽出して言葉でまとめると下に示す様にまとめることができる。 これはまさに多くの偉人達が残してくれた「人類の心の遺産」であるとも言える。私もこれからの人生をこの考えを座右の銘として生きていきたいと念じている。

3.脳の若さを保つには

今回の講演のもう一つのテーマである「脳の若さを保つには」どうすればよいかについて私の経験も含めて紹介する。まず脳に対する基本的なイメージを頭に叩き込んでおいて頂きたい。

1.脳は何歳になっても新たな刺激によって新たなネットワークを作ることができる。
2.異なる種類の脳神経のシナップスとネットワークは幾何級数的に増加する。

そこから導きだされる結論は、脳のできるだけ多くの領野を刺激すること 即ち「多くの種類の異なる学習による刺激」が必要であるということである。その考えの参考となるイメージとして「リービッヒの最少律」というのがある。それは植物の成長速度や収量は、必要とされる栄養素のうち、与えられた量のもっとも少ないものに影響されるとする説で、それを分かりやすく現わしているのが下のドべネックの桶である。

桶を形作っている木枠で最も低いレベルにしか水が貯まらないことを示しており、脳に当てはめて見ると脳の各領野の機能の中で最も低いレベルがその人の脳のレベルであるという見かたである。脳に対する栄養素である学習に関しても同じであり、できるだけ多くの脳の領野を万遍なく刺激しなければならないたとえになるとして紹介した。脳のいろんな領域に刺激を送るためにはできるだけ多種類の刺激を送ることが必要で、下に示す様な学習から運動面、芸術面とできるだけ広範囲の脳への刺激を与えることが大切である。そのため私は10年以上前から医師として患者さんを診察したり医学書を読む以外に多くの趣味やスポーツにトライしている。

これでも足りないと思って毎年新しい取り組みを考えている。参考になるかとその一部を下に写真入りで紹介している。

そして最後にどんなことにも興味をもって取り組み、人の為に役立ちたいとの私の思いを文字にした「そんな私でありたい」という詩を紹介させていただいてこの講演のまとめとしたい。

あとがき

この講演会のあと荒井奈良県知事を囲んで、もう一人の講演者である山折哲雄先生と私、そして審査委員長の元奈良県立医科大学学長の吉田修先生で懇親会が持たれた。吉田先生からは私の話の「生きるための3原則」の源となった偉人達の名言の選択に私の私情が入っているのではと指摘された。それは私へのお褒めの言葉として頂戴すべき先生の温かいお言葉でもある。確かに遺訓や名言の選択にこれが使えるかどうかに「これは良い」との判断が入った事は否めない。しかし取捨選択した名言、遺訓の母集団を通読していた私の感覚からも既にこの3原則はどのような統計処理をしても抽出されるであろうとの予想があった。そのため私情が入ったとしても結論は同じであったと考えている。懇親会の場で吉田元学長先生に反論できなかった点をここに書き加えて稿を終わりたい。 

2013/11/12

医師会の余興でマイケルジャクソンを演じる岡本医師

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癌と共に描き続けた大和路
― 林野 茂氏の作品から ―

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本 新悟

 平成19年9月21日の朝、私が専門外来の診察を始めようとする10分程前、消化器外科病棟に入院中の林 野 茂氏の奥様が涙を隠すことなく私に寄りかかりながら「昨日1時50分に主人が亡くなりました。先生に有難うございましたと伝えてくれ、と言って亡くな りました」と。その後の声は途切れて言葉にならなかった。

? 診察を始める時間になっても私の脳裏にこの5年間膵臓癌と戦ってこられた林野氏の姿が脳裏を去らなかっ た。氏にとってこの5年間は、癌の告知を受け手術を受けるも完治できず抗癌剤による治療を続けながらの毎日であった。時々襲ってくる苦痛に耐えながらも、 少しも不安や愚痴を口にされることは無かった。いつも付き添ってこられる奥様に「重子、しんどいけど先生の話で安心した・・・」と診察を終わるたびに私に対して感謝の気持ちを顔一杯に表しながら帰って行かれたのが印象的であった。

 主治医である私は、氏が中学校の社会科の先生であること。また自作の吉野の名跡を散策する地図を頂いて、 几帳面な方だなという印象を抱いていた。服装などにはあまり気をつかわれない方で、そこに書かれた案内があまりにも繊細で女性的な文字であったために、御本人の印象とは何か相いれないものを感じていた。主治医と患者さんという関係から見えてくる人の印象とはやはりこの程度のものなのであろう。 ?

 亡くなられて3ケ月ほどして奥様とお子様の名前で一通の葉書を受け取った。「しげる展 ~ともに過ごした日々~」と書かれた個展の招待状であった。氏が絵を描いておられたことを知ったのはそのときが始めてであった。私は秘書のSさんを連れて一緒にその展覧会 をおとずれた。その展示は氏の地元の喫茶店でひっそり行なわれていた。奥様と娘さんが迎えに出て来てくださり、喫茶店に展示してある油彩の風景画や静物を一点一点、氏が描いておられた頃の病状と併せて説明していただいた。そのほとんどは大和路と吉野の風景であり、癌との戦いの中で余命を意識しながら描かれ た作品として非常に興味をもった。温かい色使いの何かホッとする風景画であるとい印象を受けた 奥様は、本人が決して人に見せるために描いていたのではないこと。そして個展などはさらさら考えてもいなかったために、この遺作展も本人の遺志ではなく、作品をみた同僚の先生の勧めで開かれたことを伺った。この遺作展を訪れた同僚の先生方も「林野先生が絵を画いておられたとは知らなかった」、「普段の林野先生からは想像がつかない」と言われます、とも奥様から伺った。そして壁に展示してある絵を一通り見終わってテーブルでコーヒーをご馳走になっているとき、奥様がカウンターの上に並べてあった数冊のスケッチブックを持ってこられた。なんとなく取った一冊目 のスケッチブックを見ながら私の心に衝撃が走った。わたしの心は、その調和のとれた構図と柔らかい線と色合いに込められた静かな世界に引き込まれて行っ た。私もかつて美術をめざして芸大を受験した経験があり、その技能の巧拙はある程度評価できると思っている。その数冊のスケッチを私は食い入るように見入って、ある著名な作家の個展を見終わった時の様な感動と脱力感を覚えた。そして帰り際まで奥様から思い出話を伺ったが、それはやはり「生徒思いの一人の まじめな中学校教諭」であった。同僚の先生から、学校でみる林野先生からは想像できないと言われたのも頷けるものであった

 帰り車の中で私は、氏が明日香や吉野の野山を散策しながらスケッチしておられる姿を何度も想像してみた。 その姿は想像できても、私にはどうしても理解できない点があった。それは日に日に迫りくる死の恐怖をどのように心に受け止め、このような絵が画ける安らかな心の時間を過ごすことができたのかということ。そして癌の告知を受けるまではほとんど絵筆を執ることは無かった氏が、人に見てもらおうとして描いたので はないそのその製作の動悸と情熱の源はどこからなのか私には想像できなかった。そして後日、私が気に入った何冊かをお借りして自室で静かに見入った。いく ら見入っても当時の氏の心境はスケッチからは計り知れないものであった

 しかし医師として、これは癌に侵され死を迎えることを知りながら一日一日を精一杯暮らしている患者さんにとって、一つの励ましとなり、限りある人生を生きる一つの知恵を与えてくれるものではないかと考え、奥様の了解を得て紹介することにした。奥様は「本当に人に見せられる絵なんですか」と私の申し出に半信半疑であっが、たとえその作品が癌を背負って描かれた作者の作品であることを抜きにしても十分見応えのあ る絵であると評価して紹介することにした。

?

林野茂 遺作展

http://hayashinoshigeru.com/

 

「学ぶ心は尽きることが無い」
-奈良県立大学シニアカレッジの創設に関わって-

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本内科こどもクリニック
岡本 新悟

はじめに
シニアの方々の学ぶ心に応えるために荒井奈良県知事の意向で平成26年4月に「奈良県立大学シニアカレッジ」が創設され、今年度の第2回開講式には700名近い受講生を迎えることになった。私はこのシニアカレッジの創設に関わったこともあり、毎回開校式の基調講演と特別講義を依頼され担当している。知事とのふとした話の中から飛び出したシニアカレッジ構想が今や分校を必要とする大きな規模となり、さらなる発展に私としても責任を感じている。われわれ医師も医療面でのサポートだけでなく、シニアの方々の学ぶ意欲の高さを理解して協力していく必要があると考え報告させていただくことにした。

1)知事との対談から飛び出したシニアカレッジ構想 
平成25年11月10日、橿原文化会館で催された「あしたの奈良表彰」の表彰式に特別講演を依頼され、私は「元気で若々しく生きるための脳の使い方」という演題で講演を行った。表彰式のあとの荒井知事と吉田修学長先生、哲学者の山折哲夫氏と私の4名での懇親会の場で、知事に私の講演の中で、脳の若さを保つには脳のあらゆる領野を刺激することが必要であるという話に興味を持って頂いた。脳を刺激する1つとして私は高校の教科書を勉強としてではなく読書として読んでいますと紹介した。今の高校の教科書はわれわれがかつて学んだいわゆる「教科書のような」という感じから内容も一新されており、理解しやすいように工夫されているのである。そのときは知事にどの程度関心をもって頂いたのかは知る由もなかったが、後から県の職員から聞いた話であるが、知事は早速高校の教科書を取り寄せられて読まれ、これは素晴らしいこの高校の教科書を教材にしたシニアを対象とした学びの場を作ろうと思いつかれ、その3ヶ月後には奈良県立大学(奈良市舟橋)にシニアカレッジが創設されたのである。そして平成26年3月に受講生を募集したところ500名を超える希望者があり、古典、現代文、日本史、世界史、英語の5教科 をそれぞれの選り抜きの教師によって週1回1年間で35回の講義を設定され年間1万円と破格の安さである。私がこのシニアカレッジの火付け役となったことから毎年開講式の基調講演と特別講義「ふとした疑問からサイエンスの扉をひらくには」という題で受講生に講義している。受講生のほとんどが現役を退かれた方々であるが、私だけでなく講義を担当されている講師も講義に聞き入るシニアの方々の熱心な眼差しに圧倒されている。そして今回平成27年度の受講生を募集したところ700名近い希望者があり、奈良県立大学の教室では収容できず、畝傍高校に分校を作って県南部からの受講生を受け入れることになった(写真1)。この私の講演というふとしたきっかけから知事の英断で花開き大きく発展しているシニアカレッジに私自身驚いているところである。

2)興味を持って頂いた講演「若さを保つための脳の使い方」とは
この奈良県立大学シニアカレッジ発足のきっかけとなった私の講演の概要(私事もあり恐縮だが)を簡単に紹介させていただきたい。まず脳は新たな刺激によって新たなシナップスを形成し、それは幾何級数的に成長するということから、「脳は年とともに老化するのではなく努力次第で若返って行く」ということを強調し、脳に対するイメージを一新していただく事にした。そして穀物の収量は与えれた養素の最も少ないものに依存するとする「リービッヒの最少律」をドベネックが桶で表現したのを示し(図1)、できるだけ多くのことにトライして等しくレベルアップすることが必要であると説いた。
 

そしてそのためには脳のできるだけ多くの領野を刺激するめに勉強だけでなく、運動から芸術などあらゆる分野に興味を抱いて好奇心を持って生活することが大切であると、私自身が日頃若さを維持するために続けている方法を紹介した(図2)。そして最後に103歳で現役の医師である日野原重明先生の生き方を紹介し、「何歳からでも、未知の分野や新しい事に興味と好奇心と、そして冒険心をもってチャレンジするなら、脳と心は成長し続け歳をとらない」という日野原語録を紹介して締めくくった。

 

3)これからのシニアの方々の生き方を考える
このシニアカレッジの創設に関わって実感したことは、人は何歳になっても「学ぶ心は尽きることが無い」ということであった。高齢化社会が急速に進むなかシニアの方々が自らの生き方を考えることも大切であるが、社会としても受け皿を考える必要がある。学ぶということは人にとって何歳になっても生きて行くためのエネルギーであり希望への道なのである。われわれ医師もシニアの方々を「年をとった人」として見るのではなく、社会への責任を果たして新たに飛び立とうとする希望を抱いた若者としても見る必要がある。このシニアの方々のエネルギーはこれからの日本の発展のための大きな力でもあり、その活用の道を知事や教育振興課の職員の方々と一緒に模索しているところである。

最後にちょっといい話であるが、私の患者さんで高校でいじめにあって不登校となり長らく悶々と生活していた31歳の女性にこのシニアカレッジに紹介した。1年後、私のところに「先生に紹介して頂いたシニアカレッジで皆様に親切にして頂き勉強がたのしくなりました。四月からは定時制の高校に入り直して、4年間バイトをしながら大学の学費を貯めて大学入試に備えるつもりです。有難うございました。」と別人と思われるように活き活きとして自信に満ちて挨拶に来られた。こんな話もあるのかとシニアカレッジの別の意味を問い直しているところである。

おわりに  
毎年3月に「奈良県立大学シニアカレッジ」の募集要項が県の広報と「県民だより」に掲載される。必ずしもシニアとは限らず、若い頃何らかの事情で学ぶ事ができなかった方にも道を開いている。先生方が診ておられる患者さんでそのような方がおられたら奈良県立シニアカレッジを紹介していただけたら幸いである。


ゴールデンゲートを疾走する院長

低炭水化物食(Low carbohydrate diet)をどう扱うか
- 糖尿病専門医からのコメント -

日本糖尿病学会評議員、専門医、指導医
元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本新悟  

はじめに
 肥満の減量目的のダイエットである糖質制限食アトキンスダイエットがメディアを介して注目されるようになり、2型糖尿病患者さんも自分なりの方法でトライされる方が多くは無いが増えてきた。
一時的な肥満の改善と血糖コントロールの改善だけに注目してその効果を過大評価されている嫌いがある。今回第57回日本糖尿病学会が大阪の国際会議場で開催され、「低炭水化物食は有益か有害か」というシンポジウムが開かれ、また低炭水化物食に対する国外からの演者の講演もあり、それらを含めた現在の日本糖尿病学会の見解を紹介しておく。

1.低炭水化物食とは
現在日本人にとって食事総カロリーの50~60%を炭水化物で、20~30%を脂質とし、蛋白質は体重1kgあたり 1.0 ~1.2g 程度が理想とされている(日本糖尿病学会勧告)。問題となっている低炭水化物食は総カロリーの40%以下から極端な場合25%以下の低炭水化物食で、その代わり脂質や蛋白量が増加することになる。炭水化物を減らして総カロリーを一定にするために脂質や蛋白質を増加させる場合と、炭水化物を減らして摂取カロリーを自由にした食事などがある。それらの低炭水化物食で体重の変化や血糖コントロールがどうなるかを追跡した研究が各国で行われて最近その総合評価(メタアナリーシス:by Hiroshi Noto et al )の結果が報告されたのでその結果を併せて低炭水化物食の有用性と問題点を紹介する。

2.低炭水化物食は有用かどうか
1)低炭水化物食の継続性について
低炭水化物食を継続することは比較的困難で1年後には30%から50%の患者さんが脱落して継続していなかった。
2)体重コントロールに対する効果について
半年間は順調に体重減量の効果があったが、半年以降は再びもとの体重に復する傾向があった。
3)血糖コントロールに対する効果について
体重の減量に相応して血糖コントロールは改善傾向を示し、グリコヘモグロビンとして 1.0%から 1.5%の低下がみられたが、半年以降は再び上昇傾向を示した。

 以上より低炭水化物食は一時的な体重コントロールと血糖コントロールには有用であったが、長期の効果は不十分でありさらに長期の研究が必要である。

3.低炭水化物食の問題点と有害性について
各国で行われた低炭水化物食による長期追跡の論文(英文17点)
の結果から
1)10年以上の追跡で低炭水化物食群は死亡率がコントロールに比して優位に高かったという報告がある。 
2)心疾患の罹患率は低炭水化物食のほうが高かった。

 以上から低炭水化物食は長期継続で注意が必要であり、さらなる研究が必要である。

4.低炭水化物食による副作用の報告
炭水化物は最終的にはブドウ糖として腸管から吸収され、
全身の細胞でエネルギーとして代謝される。さらに吸収されたブドウ糖は肝臓と筋でグリコーゲンとして蓄えられ、さらに過剰のブドウ糖は脂肪細胞に中性脂肪として蓄えられる。食事摂取量が少なくなり糖不足の状態で肝や筋のグリコーゲンはブドウ糖に変換されて血中の糖を維持することになっている。もし著しい低炭水化物食を継続するなら肝臓と筋におけるグリコーゲンの蓄積が少なくなり、飢餓状態や病気で食事が十分摂取できないときの血糖維持が困難となり、また筋のグリコーゲン不足で運動時の持久力も低下する。
脳はブドウ糖でしか機能できない臓器であり、ブドウ糖の低下は脳の機能低下に繋がる。一方肝や筋のグリコーゲンを分解してブドウ糖にする場合アドレナリンが必要となりそのアドレナリンは脳に働き心理的に不安定でイライラした精神状態を引き起こすことも知られている。
そのような背景からどのような事が生じるかは今回の糖尿病学会でも報告された。

低炭水化物食による副作用のリスト

1)低血糖の頻度の増加
2)筋力低下と筋痙攣
3)感染症や消化器疾患などの飢餓状態での回復力低下
4)精神的に不安定で思考力の低下
5)糖尿病性腎症を有する例の腎機能の低下

5.低炭水化物食をどう扱うか
私は低炭水化物食を一概に否定するものではない。日本糖尿病学会の勧告を基本に考えるなら、BMI 30以上の肥満患者に対して、半年を限って行い、減量がある程度達成された時点から標準的な食事にもどして運動を加えるのが良いと考えており、長期の食事療法には適していないとみるのが糖尿病専門医の考え方である。

おわりに
私の治療している患者さんの中に、何名かの方が低炭水化物食にトライされて血糖コントロールの改善で低炭水化物食を絶対視されている方がある。糖尿専門医からは低炭水化物食のマイナスの点も紹介しておく責任があると考えこの小文で紹介することにした。

簡単に言えば「角をためて牛を殺す」の愚に陥らないバランスのとれた考えで治療を続けていただきたいということである。

 

日野原重明先生とオックスフォードでの
オスラー協会総会に出席して 

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本内科こどもクリニック院長 岡本新悟

はじめに  

この5月10日から5日間イギリスのオックスフォードにて第44回オスラー協会総会が開催され、日本からは学校法人聖路加国際大学名誉理事長である日野原重明先生と天理医療大学学長の吉田修先生、そして私共を含め13名が出席した。現在102歳で尚現役で仕事をされている日野原先生の総会での御活躍を目の前にし、医師としての大きな鏡でもある先生の姿を紹介することに意義があると考え、行程に合わせてエピソードを添えて紹介させて頂く事にした。

1.オスラー協会と日野原先生  

アメリカオスラー協会は、ジョンズ・ホプキンス大学とオックスフォード大学の教授であったウイリアム・オスラー博士の偉業を記念して、弟子達により1970年に創設された会である。 日本では1983年に日野原先生が日本オスラー協会を立ち上げられ初代会長として活躍してこられた。現在はNPO法人となり元奈良県立医科大学学長の吉田修先生が理事を務められている。アメリカオスラー協会は年1回の年次総会と4年に一度イギリスのクラブとの共催で総会が開かれ今回は日本オスラー協会も参加した3カ国合同の第44回総会である。この学会は他の医学分野の学会とは異なり、オスラーの偉業にちなんで医学史やオスラーの生誕からのエピソードを紹介しながら現代医学の問題点を探るといった現代医学を高い視点から俯瞰する他では見られない学会である。その参加者の殆どが教授や学長といったそうそうたるメンバーで、演者も殆どが著名な教授や学長であった。私は20年前に日野原先生の「平静の心 オスラー博士講演集」と「医の道を求めて ウイリアム・オスラー博士の生涯に学ぶ」などを読んでオスラーに傾倒していた。オスラーの業績は学問的業績だけでなく医学教育や看護教育、社会医学など幅広く、医学概論から医師が患者とどう向き合うべきか、また1人の医師としてどのように心の平静を保ちながら医療に熱中すれば良いかといった具体的な医師の処世訓まで残しており、その意味から日野原先生のオスラーに関するこれらの著書はわれわれの手が届かない巨星であるオスラーの人柄を直に触れることができる貴重な書であると言える。そして私は20年前に日野原先生が京都に講演に来られた時に先生の著書である「平静の心」のページにサインして頂いたことがあり、私とオスラーと日野原先生との出会いは20年前にさかのぼることができるのである。そして今回光栄な事に吉田先生から御誘いを受けたが、私はむしろオスラー協会の学会参加よりもこの数日間を日野原先生と過ごし先生からいろいろ教わることができる事を期待して参加させて頂いた。そのため出発までに先生が出版された単行本を10冊程読んで参加した。

2.羽田国際空港での日野原先生との再会  

出発前に羽田空港の一室で結団式があるとの事でそれに合わせて 羽田空港ホテルで一泊した。日本オスラー協会のメンバーは日航のVIP扱いで貴賓室に案内された。私と家内が最初に部屋に案内され日野原先生の到着を緊張しながら待っていた。日野原先生は今でも聖路加病院の名誉院長であり超有名人でもあることから、きっと聖路加病院の医師が1人か2人は同伴されて来るものと思っていた。しかしほどなく日航の秘書の案内で部屋に入ってこられたのは日野原先生と御子息の奥様だけであった。そして私の左奥の椅子に深く腰かけられて、「皆さま御苦労さまですね。私は昨日名古屋で講演してきてね」と話された。本に紹介されている写真よりも血色がよく、1時間以上の講演を月に数回こなされているだけあって声に張りが有りお元気であった。足元が少し不安な所を除けば80歳前後の品のいいお洒落なお年寄りであった。そしてしばらくして吉田先生御夫妻が到着されて日野原先生の横にすわられ今後の大学の構想などを話しておられた。それを横で拝聴して驚いたのは「うちの聖路加国際病院が大学に成ってね、東京オリンピックの選手や関係者のための医療センターになるので色々会議があってね。」と話されていた。東京オリンピックが6年先となると先生は108歳に成られるのであるが、自身の年齢などは全く意に介さず6年先の構想を練っておられるのであった。 吉田先生から「これは奈良医大の岡本先生で、バングラデシュに寄附で病院を建設し、マンゴーの苗を植えて医療費を援助している先生です。岡本君何か紹介できる資料をもっているか?」と聞かれ私はバッグに入れて来た「バングラデシュへの道」という冊子を先生にお渡しした。私は先生がきっと小冊子をぱらぱらっとめくって後で読ませてもらいますよとカバンにしまわれると思っていた。しかし先生は表紙から食い入る様に見ながら15分程順にページをくりながら内容に眼を通しておられた。私が少し席をはずしてもどって来ると吉田先生から「先生が是非協力させて頂くと言っておられたよ」と聞かせて頂いた。私の支援事業に何か大きな力を頂いた感じで出発の最初から大きな感動であった。そして出発の30分前にわれわれの特別室にスチュワーデスと同じJALの制服を着た美人の秘書が入ってきて「先生お久しぶりでございます。いつもお変わりなくお元気で私も嬉しいですわ!」と両手で先生の手を握ってなかなか先生の手を離さなかった。われわれなんかには見向きもしない若い女性秘書にとって日野原先生は特別の存在で、手を握らせて頂くだけで何か幸運をもらう様な感じなのかも知れないと思った。彼女が出て行ってから吉田先生が冗談まじりに「先生若い女性にもてるにはどうしたらいいんですか? 羨ましいですね。」と言われると、日野原先生は「お洒落をすることですよ」とさらりと言われた。確かに先生はお洒落でワイシャツからネクタイそして靴まで完璧で清潔感を感じさせる素敵なジェントルマンであった。しばらくして別ルートで一般の人より先にビジネスクラスの機内に案内された。

3.オスラー記念館への招待を受けて  

ヒースローに降り立ったのは9日夜で、翌10日は日野原先生と一同がロンドン市内を観光し夜はロイヤルアルバートホールでチャイコフスキーのピアノコンチェルト1番などを聴いた。宮殿の様な豪華な吹抜けのホールに響き渡る力強いピアノの音に先生も感激して夢中で聴いておられた。11日は学会が開催されるオックスフォードに移動した。その夜オックスフォード大学のライアン名誉教授が日本オスラー協会のメンバーをオスラー記念館に招待してディナーパーティーで歓迎して下さった。ライアン教授は玄関の階段の上でわれわれを待っておられ、少し足元が不安に見えた日野原先生を少しサポートしながら招き入れられた。本部内にはオスラー博士の歴史が閲覧できる資料室とオスラーが寄贈した蔵書が図書室に整然と保管されており、膨大な書籍からオスラーの偉大さを感じないわけにはいかなかった。そしてライアン教授は皆を資料室に招き入れて、オスラーのレリーフの真横に日野原先生の写真が飾られているのを指さされ紹介された。日野原先生は笑みを浮かべ満足そうに親指を立ててガッツポーズをされた。

日野原重明先生とオックスフォードでのオスラー協会総会に出席して一通り説明を受けたあと隣にあるゲストルームで軽いディナーを頂くことになった。ライアン教授の歓迎の挨拶に続いて、日野原先生が英語で感謝の言葉を述べられた。我々がこの様な歴史的に重要なオスラー記念館に特別に招かれると言う事から、日野原先生の存在がいかに大きいかを肌で感じた。日野原先生はライアン教授と想い出話をされていたが、私は少し時間を頂いてかつて20年前にサインして頂いた先生の著書である「平静の心」を先生にお見せした。

そしてサインを頂いたページを指さして「先生これが20年前に先生が講演された時に頂いたサインです、この横に今日の日付で先生102歳のサインを頂けますか」と本を差し出した。すると20年前の講演を思い出された様で、「そうそう覚えていますよ」言いながらサインを頂く事ができた。まさかこの本と一緒に先生に再会するとは思わなかっただけに私の貴重な宝物となった。そしてライアン教授と日野原先生、吉田先生そして私達との楽しいオックスフォードでの一夜であった。

日野原重明先生とオックスフォードでのオスラー協会総会に出席して

 

4.オスラー協会総会での日野原先生の挨拶  

日野原重明先生とオックスフォードでのオスラー協会総会に出席して13日の午前9時40分から吉田先生の講演があり、その前に日野原先生が挨拶されるということで日本からの参加者は前の方の席に陣取っていた。最初吉田先生が「本日、日本オスラー協会の理事長である日野原先生が皆さまに是非ご挨拶をと来られています。日野原先生はスライドに紹介されている方で現在は百二歳に成られます。」と紹介されると会場にどよめきがおこり最前列に座っておられた日野原先生がゆっくり立ち上がって演壇の前まで進まれマイクをもって ”I am Dr. HINOHARA, the chairman of the Board of Japanese Osler Society. Today I come with over 10 members of Oslerians of Japan. I am 102 years old now and I am glad to ・・・“ と流暢な英語で力強い声で挨拶された。

最後に”Thank you very much” で締めくくられると会場は大きな拍手に包まれ、外国からの何人かの聴衆は拍手をしながら立ちあがりまさにstanding ovationであった。そして私の横にいた外国のドクターは自分の頭を指さして “ very clear! very clear! amazing! “ と叫んでいた。

日野原重明先生とオックスフォードでのオスラー協会総会に出席してまさに世界のHINOHARA を見た感じであった。 そしてどよめきが静まったところで、吉田先生の 「A Bedside Library for Medical Students: Ten Book Recommendations」という演題でかつてオスラーが寝る前の30分読書することで膨大な本を読むことができたこと、特に医学以外の読書の重要性を医学生に説いたことを最初の導入とし、最近インターネットの発達で医学生が読書をしなくなった事の問題提起のあと、私なら医学生にこの様な10冊の本を紹介したい、と1冊づつその内容を簡単に説明された。この吉田先生の講演は実際この場に出席している外国人医師にも是非読んでもらいたいとの意図があり、多くの参加者が抄録にメモを入れていた。日野原先生は最前列で戻る準備をされていたがそこへ多くの外国からの参加者が握手を求めて寄ってきた。中には昔からの友人の参加者があり「オー、オーProfessor ○○」と先生が御自分から手を差し出して握手されていたのが印象的であ った。

日野原重明先生とオックスフォードでのオスラー協会総会に出席してまた数冊の著書に英語でサインされて手渡されていたことも印象的であった。日本からの日野原先生の挨拶と吉田先生のスマートな講演にわれわれ参加者も鼻高々であった。そして私と家内は翌日からの診療があり、日野原先生に挨拶してヒースロー空港から帰国の途についた。日野原先生との数日間は人生の達人から直にその生き方を学ばせて頂いた感動的な素晴らしい日々であった。

5.日野原先生の生き方から学んだ事  

日野原先生は今尚聖路加病院の名誉院長で、現役で色々な会の理事や会長を務めておられ月に何回もの講演をこなしておられ、それだけでも誰もが「100歳を超えてすごいな」という事になる。しかし国際学会の場で堂々と流暢な英語で挨拶されている姿をみて「世界のHINOHARA 102歳、今尚健在」であった。この数日先生と間近に接し、隣り合わせの席で先生の若かりし頃の話しや発展途上国の医療についての御意見も聞かせて頂いた。このオックスフォードでの先生から受けた印象の中で私にとって最も大きなインパクトは「先生は人生の幕引きというイメージを持っておられない」ということであった。われわれは普通70歳から80歳で人生を終える事をイメージして人生設計をしているが、 先生はMy Way の歌詞にある” face to final curtain ” が無いのである。私には日野原先生の年まで未だ35年あり、先生の歳からみれば私はまだまだ青年なのである。以来私は自分の脳裏から離れなかった final curtain を取り払い、いつそのcurtain が降りてきても良い心構えで遠い先まで夢を抱いて生きて行きたいという気持ちになった。それは何にも替え難い大きな収穫であった。そして先生に同行するまでに読んだ10冊近い先生の著書の中の日野原語録と言える文章の要約を紹介して稿を終わりたい。

“何歳からでも、未知の分野や新しい事に興味と好奇心と、そして冒険心をもってチャレンジするなら脳と心は成長しつづけ歳をとらない”

(この日野原語録は平成26年4月に500名を超える受講者を迎え 盛況のうちにスタートした「奈良県立大学シニアカレッジ」の開講式の基調講演で紹介した。)

追記:帰国後秘書の方から聴いた話であるが、先生はオックスフォードから帰国された翌日から2回続けて大きな講演されて元気にされているとの事である。

 

「大学入試センター試験」受験のすすめ
― 平成27年度センター試験を受験した経験から ―

元奈良県立医科大学内分泌代謝内科臨床教授
現畿央大学客員教授
岡本内科こどもクリニック院長 岡本新悟

今年1月17日、18日の二日に渡って行われた「大学入試センター試験」を奈良教育大学試験場で受験した。私は旧課程での受験となり1日目は朝9時30分から社会(世界史Aと倫理)、国語、そして午後からは英語の筆記とリスニングの試験を受け、翌日は午前に数学Ⅰと午後に数学Ⅱと理科(総合A,総合B)と全教科を受験した。なぜこの様な事にトライすることになったかと言うと、2年前に橿原文化会館で開催された「あしたの奈良表彰」の記念講演で、私が担当した「日々若々しく生きるための脳の使い方」という講演で、脳の老化を防ぐには脳のあらゆる領野を刺激することが大切で、高校の教科書を使って色々な分野に興味をもつことが有用であると紹介したことに始る。その講演に荒井奈良県知事に興味を持って頂き、昨年4月からシニアの方々を対象に高校の教科書を使って講義を行う「奈良県立大学シニアカレッジ」がスタートし500名を超える受講生を迎えることになった。私も特別講義などを受け持ち、シニアの受講生達の学ばんとする心に圧倒され、講義の最後に「私は来年のセンター試験を受けてみますから、みなさんも一緒に受けませんか。」とつい言ってしまった。そして高校の教科書を時々興味本位に目を通すうちに受講生に約束した一事を思い出し「センター試験をうけてやろう」という気になり此の度トライしたのである。

まず現在の高校の教科書であるが、私は自分が卒業した高校の生徒が使っている全教科の教科書を購入して目を通した。昔、私達が高校で使った教科書とは全く装丁から内容まで一新されており、読んでいると楽しく理解できるように工夫されているのである。荒井知事も教科書を購入され内容を読まれそのすばらしさに感心され一気に「シニアカレッジ」構想を現実にされたのである。私も夜時間のある時に教科書に目を通し、ときにはノートにメモを取りながら「教科書の読書」を続けている。先生方には是非高校の教科書を読書のつもりで読まれることをお勧めしたい。

「大学入試センター試験」受験のすすめ 試験上の門前で受験票を提示する私そしてセンター試験であるが、文部科学省が毎年行っている大学入試のための一次試験で、大学入試を目的としないわれわれが受けても他の受験生に迷惑を掛けることが無いということもあって受験した。センター試験の手続きは前年の10月にホームページから申込書をダウンロードし受験項目などを記載し、「高校卒業証明書」を添付して受験料を納付すれば受験票が送られて来る。12月の初旬に受験票が送られてきたときにはそれを見て受験生特有の緊張感をおぼえた。

 

さて受験当日、17日の土曜日は「学会出張のため休診」と張り紙し診察を休んだが、後ろめたい感じは拭えなかった。当日早くから目がさめ、服装はできるだけ目立たない様に高校生らしいフード付きのオーバーにジーンズを着ることにした。そして家内に弁当を作ってもらって「試験頑張ってね」と激励(?)を受けて会場に向かった。奈良教育大学の門前では予備校の先生達が旗を持って受験生の応援に来ており、私が前を通ると試験監督と思ったのか「御苦労さまです」と深ぶかとお辞儀された。表示の受験番号に従って30分前に指定の教室に入ると既に15名程の受験生がきており、私が入って行くと顔をみて一瞬「何か見てはいけない者を見た様に」目をそらすのであった。しかしその後はお互い何くわぬ顔で、私も机を前にすると次第に高校生の気分で完全に受験生となっていた。試験20分前に3人の試験監督が試験問題と解答用紙の入った大きな袋を持って入ってきて、「監督要領」という冊子を見ながら一通り注意事項を読み上げ、受験票の写真で受験生の顔の確認を始めた。私の番になって監督は何くわぬ顔でそっと私の顔を覗いて、うなずきながら次の受験生の所に移っていった。そして時間がきてベルがなり最初に社会の試験が始まり、私は世界史Aと倫理を受験した。問題を読んでいるときチラと私の方を見る試験監督の目が気になったがあとは必死であった。 「大学入試センター試験」受験のすすめ 他の受験生と次の試験を待つ私さすがに年の功で、ある程度常識問題は楽に解答できたが、倫理の問題の解答がどちらとも言えない選択枝が多く困った。その後は国語と英語、イヤホン付きのレコーダーによる英語のリスニングでその日は6時10分で試験が終了した。最近これ程必死に文章を読んだことが無く、試験が終了したあとはさすがにぐったり疲れた。試験が終わって受験生達と一緒に試験場を出るときには私自身、完ぺきに高校生の気分であった。そして疲れ果ててJR奈良駅まで歩いているうちに寒くなって、途中の飲み屋で熱燗で体を温めて帰った。その話を家内にすると「センター試験を受けて飲み屋に入る受験生は日本全国あなただけですよ」とからかわれた。翌日18日は数学ⅠとⅡ、そして理科の総合A、Bを受験した。二日目は同室の受験生も監督の先生方も不思議な顔をしなかった。終わったのは5時40分でこの二日間のセンター試験の経験から、評点結果はともかく私が提称する「脳のあらゆる領野を刺激する」という目的に十分かなう大きな刺激であった。

 

最後にこの誰にも迷惑をかけることなく、診療以外に使う脳をここまで刺激してくれるセンター試験を是非先生方にもトライして頂けたらと投稿させて頂いた。もし同志の先生がおられたら来年一緒に受験して「飲み屋で一杯」の楽しみを御一緒させて頂きたいと思っている。

本原稿は「メディカルトリビューン誌」に投稿済(H27年1月26日)

終戦記念日に添えて

「戦地から帰還した従軍看護婦長のはなし」

元奈良県立医科大学臨床教授
岡本内科こどもクリニック院長
岡本新悟

ある夜、NHK特集で第二次世界大戦の南方戦線から帰還した看護婦長たちの戦地での体験談を、放送記者がインタビューという形で紹介していた。彼女達は皆九十歳を少し過ぎた高齢であるが驚くほどしっかりした語り方で老いを感じさせなかった。またその証言は戦後七十年を経ても、戦争に対する憤りと戦地で亡くなって行った多くの兵士の無残な最期を余すところなく伝えてくれていた。まずは彼女達の高潔な心が九十歳を越える今尚心中に息づいていることに心を打たれた。われわれの年代はまだ終戦前のニューギニアからインドネシアそして沖縄戦へと続く南方戦線がいかに過酷で悲惨な戦いであったかを知っている。私の叔父もニューギニアのメナムで戦死しており、食べ物も無く飢餓状態で泥水を飲みトカゲなどを食べながら迫ってくる敵の銃弾に倒れたと聞いている。その悲惨な戦いの一部始終を戦後十年経って祖父母が息子の戦友から聞いて痛く涙していたのを思い出すことができる。間接的であるが私も戦争の悲劇を身に感じている一人なのである。その番組の中で九十二歳のある看護婦長であった方の証言だが、やっと戦地から帰還できて本土の土を踏むことができ、列車で故郷に帰る時、満員の列車に乗り合わせた周りの人々から「婦長殿御苦労様でした」と感謝の言葉を掛けられた時の証言で、「私は戦地で十分な看護ができなかったのに御苦労様でしたと言われるのが辛かった」と言葉少なく言われた。戦地でどの様なことが有ったのか我々には想像もつかない。しかし当時のことを今でも謙虚に受け止めて、あの時十分な看護ができていたらと己を責めているこの九十を過ぎた女性の姿に、若かりし頃戦地で銃弾に倒れた兵士を抱きかかえ必死に看護している白衣姿と重なり神々しく映った。過ぎ去った過去を都合の良いように歪曲してむしろ自慢話とする人が多い中、この従軍看護婦長たちは今尚謙虚に自分を受け止め、戦争がいかに悲惨であるかを体験から訴えておられた。人間の尊さとはこんなところにあるのかと襟を正させられた一言であった。

追 記
前文は昨年八月の終戦記念日の特集を観て書き残しクリニックの壁に掲載している文である。毎年八月の終戦記念が来るとその中に紹介しているニューギニアで戦士した叔父(秀博氏)の事を思い出す。叔父は太平洋戦争が敗戦にかたむいていた頃に徴兵され、南方戦線に送られて行ったのである。伯母から聞いた話であるが、出兵の朝、叔父は軍服姿で家族に別れの挨拶をし、村の人々に見送られ列車に乗っていった。見送りの後、両親と兄弟たちが家にもどって庭に落ちている白い片方だけの手袋を見つけ、一瞬叔父が忘れて行ったのかと思ったそうである。それは二度とこの家にもどって来ることはないであろうと覚悟を決めて片方だけの手袋をそっと庭に置いていた叔父の形見なのであった。皆それを手にして涙したという。私も終戦記念日にはその白い手袋の話を思い出しては二十五歳で戦死した叔父を思っている。  最近安部首相が「国民の生命と財産を守るために憲法を改正して自衛隊を軍隊として海外に派遣したい」と平気で言っている。太平洋戦争でどれほど多くの国民の命を犠牲にし、国民を貧困に陥れたことか。二十五歳で戦死した叔父や多くの兵士達も軍人と言えども、父と母そして妻子もある国民である。それを思うと「軍隊で国民の生命と財産を守る」というのはまっ赤なうそで、「軍隊こそ国民の生命と財産を犠牲にする魔物」なのである。決して大層な信念を抱いてのことではない、この叔父の白い手袋がわたしの戦争反対の原点なのである。

 

お問い合わせ、ご予約は: JR・近鉄 桜井駅 岡本内科こどもクリニック
電話 0744-42-4152 FAX 0744-42-4131

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